体調悪いはずが急回復?タイのタクシン元首相が故郷で見せた影響力 国外逃亡から十数年、「大物復帰」で揺れる政界

タイ・チェンマイで支援者にあいさつするタクシン元首相(右)=3月14日(共同)

 高級車レクサスのスライド式ドアが開くと「体調が悪い」はずのタイのタクシン元首相(74)は席から体を持ち上げ、誰の助けも借りずに降り立った。3月14日朝、約17年ぶりの故郷訪問となった北部チェンマイ。サングラスにマスク姿で表情はうかがえない。それでも約1カ月前、車椅子に乗り、肩を保護していた様子からは一変。首にサポーターは巻いていたが、きびきびとした足取りで、出迎えた支援者に歩み寄った。
 国外での長い逃亡生活を経て、昨年帰国を果たしたタクシン氏。激動が続くタイ政界で隠然たる影響力を保持するとされ、今回の3日間の故郷訪問はまさに「復活」を印象づける瞬間となった。100人以上の報道関係者が同行し「まるで現役首相が視察に来たようだ」(地元記者)とまでささやかれた訪問の様子を、現地からお届けする。(共同通信バンコク支局 伊藤元輝)

 ▽目立った「特別扱い」

 タクシン氏が国外逃亡生活から帰国したのは昨年8月にさかのぼる。タクシン派「タイ貢献党」が大連立を主導して政権発足を固めた時期だ。2006年のクーデターで首相の座を追われ、2008年から国外逃亡生活を続けたタクシン氏だが、いわゆる「タクシン派」の復権で約15年ぶりの帰国の道が開けた。タクシン氏は首相在任時、地方の貧困層から絶大な支持を受けたが、保守層やエリート層との政治対立は深刻化し、クーデターにつながった歴史がある。

タイ・チェンマイで車から降りるタクシン元首相=3月14日(共同)

 ついに祖国の地を踏んだタクシン氏だったが、今回の故郷チェンマイ訪問までの半年間あまり、堂々と公に姿を現すことができなかった。首相在任中の汚職罪などで実刑判決が出ていたからだ。帰国して首都バンコクの空港に降り立つと、そのまま拘束された。ところが、高血圧などを訴えて刑務所収監は免れ、警察病院での入院生活を続けた。
 刑期は当初「計8年」だったが、国王の恩赦で「1年」に短縮された。そして今年2月、まだ半年の刑期が残った状態で仮釈放の条件に合致すると認められた。あれよあれよという間に拘束期間が短縮され、高齢や健康状態の悪化を理由に、ほぼ刑務所収監を免れたまま仮釈放されたタクシン氏。「特別扱いされている」との批判はやまない。

バンコクのドンムアン空港に到着したタイのタクシン元首相(中央)=2023年8月(共同)

 ▽熱狂で迎えた地元

 「奇跡の急回復」。タクシン氏がチェンマイを堂々と歩く姿を、一部メディアは皮肉を込めて伝えた。以前から臆測として出ていた「そもそも仮釈放されるほど悪い健康状態ではなかったのではないか」との見方も一層強まる結果となった。滞在中、タクシン氏が首のサポーターすら外した写真も出回った。それでも、タクシン氏は「だんだんと体調が良くなってきたんだ」と記者団に答え、批判を気にする様子はない。
 タクシン氏が市場を訪問すれば支援者が大歓声を上げて出迎えた。串焼き屋台を営むティアムさん(75)は通りすぎるタクシン氏の腕をつかみ、満面の笑みを見せた。「タクシン首相時代は本当に経済が良かったのよ。帰ってきてくれてうれしい」。タクシン氏は地元支持者の熱狂的な歓迎、そして旧友や孫ら親族との再会を受け、再びエネルギーをみなぎらせ始めたように見えた。

タイ・チェンマイの市場を訪れたタクシン元首相(中央)=3月14日(共同)

 ▽相次ぐ「タクシン詣で」

 「仮釈放されたとしても、タクシン氏は政治には関わらない意向だ」。近く仮釈放されるとの観測が高まっていた1月、タクシン派「タイ貢献党」の関係者はそう明かしていた。しかし、今やそれを額面通りに受け止める向きはない。確かに党の役職には就いていないが、チェンマイ訪問中、次女のペートンタン氏がぴったりと寄り添っていた。

タイ・チェンマイの公園を視察するタクシン元首相(中央)とペートンタン氏(右隣)=3月14日(共同)

 ペートンタン氏は昨年10月からタイ貢献党の党首を務める。タクシン氏帰国からわずか約2カ月後の就任だった。タクシン氏は「彼女が実行したり決定したりすることは何であっても支援する」と記者団に断言した。将来的に首相を目指すとみられているペートンタン氏は、隣でにっこりと笑った。
 さらに、3日間のチェンマイ滞在中にはタイ政界から「タクシン詣で」が相次いだ。欧州歴訪から帰国したばかりの国のトップ、セター首相も駆け付けた。表向きはチェンマイの大気汚染問題に関する視察が目的だが、到着するとすぐにタクシン氏と面会した。タマナット農相も「偶然チェンマイ訪問が重なった」として、タクシン氏に一部同行した。政界への影響力はいまだに大きいことが改めて示された。

タイ・バンコクのタイ貢献党本部で、写真に納まるペートンタン党首(右)とセター首相=2023年10月(共同)

 ▽「お膝元」をてこ入れか

 タクシン氏の復活で、タクシン派の復権が盤石となるのか―。話はそう単純ではなさそうだ。実はチェンマイでは昨年の下院総選挙時、タイ貢献党は10議席中2議席しか奪えていない。かつてタクシン氏のお膝元として圧倒的な強さを誇ったのはもはや過去の話。若者の支持を受けた最大野党「前進党」が7議席を占める。前進党はタブー視される王室への不敬罪の見直しや国軍の徴兵制廃止などを訴え、全国で躍進して下院第1党となった。
 タクシン派のタイ貢献党は第2党に甘んじたが、軍や王室と関係が深い保守的な政党などと大連立を組むことで政権発足を主導し、なんとか前進党を野党に追いやった経緯がある。タクシン派の今後の政権維持が盤石とは言えない中、今回の訪問により「地元のてこ入れ」を図ったと見られている。

タイ総選挙で第1党となり、祝賀パレードであいさつする前進党のピタ党首(中央)=2023年5月、バンコク(ゲッティ=共同)

 ▽戻ってきた「本物」

 タイ政界の動きは複雑で、前進党もまた危機にある。改革を訴えたことで王室や軍に近い保守層から怒りを買い、1月に憲法裁から公約の違憲判断を受けているのだ。今後、解党を命じられる可能性もある。ただ、もしそうなった場合でも前進党を支持した若者たちの関心をタクシン派が取り込めるかと言えばそれは疑問だ。一部メディアは「若い世代はタクシン氏を知らない」と冷ややかに報じる。

タイ・チェンマイを視察するタクシン元首相を取り囲む報道陣=3月14日(共同)

 とはいえタクシン氏の再始動が今後本格化すれば、政界への影響力がさらに強まる可能性はある。実際、チェンマイ訪問からバンコクに戻った約2週間後にはタイ貢献党の党本部を訪れ、またも支持者から歓迎を受けた。タクシン氏は4月の仏教暦の正月「ソンクラーン」の時期もチェンマイを再訪する予定で、今後も「毎年来たい」と意欲を見せる。今回の同行メディアは100人以上。「まるで現役首相が視察に来たようだ。やっぱりタクシン氏は本物の政治家だね」。地元記者がこう漏らしたほどの「大物」が、タイ政界に戻ってきた。

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