趣里はスズ子として『ブギウギ』を生き抜いた 最初から最後まで物語を貫いた“身体表現”

金色の紙吹雪と客席の大歓声に祝福されながら、スズ子(趣里)が跪き、30年近く立ち続けてきた舞台に、感謝をこめて口づけをする。

半年にわたり、歌手・福来スズ子の物語を紡いできた『ブギウギ』(NHK総合)が3月29日に最終回を迎えた。「さよならコンサート」のステージでスズ子は言う。

「この小さな胸をかっ捌いて、言葉を引っぱり出したいんでっけど、もう何も言えまへん」

長い歌手人生をふり返って去来する万感の思い。観客ひとりひとり、出会った人たちひとりひとりへの感謝の思いで、スズ子の胸中には身体から飛び出しそうなくらいの熱い「ズキズキ」が渦巻いていることが伝わる。それを観ている私たちも、一緒に「ズキズキ」してしまう。

『ブギウギ』は、いたってフィジカルなドラマだった。台詞に勝るとも劣らない熱量で「身体表現」を強く押し出すことで、視聴者の共感・共鳴を誘う作劇が、初めから終わりまで貫かれていた。

劇中何度もくり返されるキーワード「ズキズキ」は、心臓の高鳴りであり、沸き立つ血潮であり、「痛み」であり、心の奥に残る「苦しみ」でもある。終戦から3年、まだ焼け跡が残る日本で這いつくばって生きる人々を鼓舞し、奮い立たせたスズ子の代表曲「東京ブギウギ」。その歌詞「ズキズキワクワク」の意味するところは、「痛みと苦さを伴うけれど(ズキズキ)、新しい世界に一歩踏み出してみようじゃないか(ワクワク)」といったところだろうか。

そもそもこのドラマの主題である「歌」。歌うという行為が、身体を震わせて腹から喉から声を出すという身体表現そのものだ。その細い身体から発しているとは思えないほどにパワフルな、スズ子の歌の「波動」を視聴者は感じ、堪能した半年間だった。

ヒロイン・オーディションの際に趣里に注目したポイントは「身体表現が抜群に面白い」ことだったと、本作チーフ演出の福井充広が語っている。また、かつてはバレエ留学もしてプロのバレリーナを目指しただけあって「体のしなやかさ、踊りの音を掴むリズム感などに関してはまったく申し分なく、スズ子役にぴったり」だと感じたという(※)。元々の身体表現力に、さらに鍛錬を加え、撮影期間約1年のあいだスズ子を「生きた」。その積み重ねが生んだスズ子の「歌の進化」は、このドラマを愛する者にとって宝物のようだった。

ブギの「タッカタッカ」というリズムは心臓の鼓動のようであり、血液が打つ脈拍のようだ。毎朝OPで流れる主題歌「ハッピー☆ブギ」でも〈ブギは/母の温もり/生きてる鼓動〉だと歌っている。

足立紳が書く、人間の「生」の描写が際立つ脚本は、「身心一如」の描写がとても多かった。スズ子が香川で出生の秘密を聞かされ、梅吉(柳葉敏郎)とツヤ(水川あさみ)の実の子ではないと知り、アイデンティティクライシスに陥ったときに漏らした「身体がバラバラになってまいそうや」という台詞。これはまさにスズ子の物理的な存在(身)と精神的な存在(心)が一緒に崩れ落ちてしまいそうな瞬間を言い表した一言だった。力なく儚げで、今にも折れてしまいそうなスズ子の身体を六郎(黒崎煌代)は抱き止める。「バラバラになんかせえへん」という六郎の言葉が、スズ子を正気に戻した。

周りからは「トロい」と言われるけれど、幼い頃から優しくて、物事の本質を知っていた六郎(少年時代:又野暁仁)。スズ子(少女時代:澤井梨丘)の幼なじみ・タイ子(少女時代:清水胡桃)が想いを寄せるクラスメイトの前で自分の殻を破り、堂々と告白したとき、六郎が放った「胸がチク~ゥしたで」という言葉が忘れられない。

そんな六郎が青年になり、戦争に駆り出される。赤紙が来たときはあんなに喜んで、両親の前では弱音を吐かなかったのに、出征前に東京までスズ子を訪ねてきて、正直な気持ちを打ち明けた。「死ぬ直前いうんは、きっとごっつい痛いやろ。めちゃくちゃ怖いんちゃうか」「ワイ死にとうないわ。死にとうないわ」。六郎の心の叫びがその後、スズ子にも、そして観ている視聴者にも、強い痛みを伴いながらリフレインすることになる。

2年後、六郎の戦死公報を受けたスズ子は、茫然自失となる。それでも舞台に穴をあけられないスズ子は、楽団の面々の前では気丈にふるまっていたが、身体に異変が起こる。「(足が)うまく動かへん。なんでちゃんと動かへんねん!」と叫びながら、スズ子は崩れ落ちる。小夜(富田望生)に抱き止められ、「怖かったやろな。寂しかったやろな」と嗚咽するスズ子の身体中を、六郎の痛みとともに、あの夜の「死にとうない」が駆け巡っていたことだろう。

愛する人を喪えば喪うほど、スズ子の「生」が観る者の胸に迫ってきた。死期せまるツヤの前でスズ子は、母娘の思い出の曲「恋はやさし野辺の花よ」を歌う。〈夏の日のもとに 朽ちぬ花よ〉という歌詞とともに、なぜだか皮肉にも、ツヤの死と反比例するようにスズ子の生命力が立ち上がってくる。愛子を出産した直後に愛助(水上恒司)の死を知らされ、「ワテも死にたい」と思わず漏らしたスズ子だったが、愛子の泣き声と、小さな“生命の塊”を抱いたときに感じた温もりに我に返り、「あんたと一緒に生きるで」と誓った。

梅吉のおならや、空襲警報が発令されたときにスズ子が「厠」に入っていて出られないエピソード(モデルである笠置シヅ子さんの実話からヒントを得たとのこと)など、「下」に関する表現もあった。このあたりが本作を嫌う視聴者に叩かれたりもしたのだが、これも「生きている身体」の描写に他ならない。

作劇論のひとつに「台詞は嘘をつく」という掟がある。なんでもかんでも本音を喋ってしまうのは野暮だということだ。台詞ではなるべく語らずに、あるいは思っていることの逆を言わせる。そして代わりに身体のどこかで語らせる「パントマイム法」というテクニックがある。『ブギウギ』はこの手法を多用していた。

たとえば、水城アユミ(吉柳咲良)が年末の『オールスター男女歌合戦』で「ラッパと娘」を歌いたいと申し出たとき、スズ子は悩んだ末に受け入れる決心をする。りつ子(菊地凛子)に発破をかけられ「ワクワクした気分になってきてしまいましたわ」と答えるスズ子。しかし、次のシーンでは少し様子が違っていた。

スズ子は、西陽が差す日帝劇場の稽古場で、自分の「ラッパと娘」のレコードを聴いてみる。かつて羽鳥から〈楽しいお方も〉の出だしに500回ダメ出しを食らったあの稽古場だ。昔の記憶が蘇って、少し足を動かしてみるけれど、四十路を過ぎたスズ子はもうあの頃のようには踊れない。最後に小声で漏らした「あの子は、どんなふうに歌うんやろ」という好奇心に偽りはないのだろうが、それだけではない、もっと複雑な、相反するいくつもの感情が渦巻いていることが、スズ子の表情と体の動きから伝わる。もしかしたらこの時点ですでに、「引退」という文字がスズ子の脳裏をよぎっていたのではいかと思えてくる。この「ほろ苦さ」がたまらない。

「『ブギウギ』の身体表現」を、草彅剛演じる羽鳥善一の「表情の芝居」抜きに語ることはできないだろう。台詞で気持ちを説明することの少ない本作で、「歌」と同じぐらい重要な役割を果たしていたのが演者による「表情」。なかでも草彅の演技は特筆すべきものがあった。

尽きせぬ音楽への愛と、同じぐらいの量で持ち合わせている業(ごう)。少年のような純粋さと、狂気にも似た偏執。羽鳥善一という、一筋縄ではいかない多層的な人物が抱えるいくつもの感情。それらが混濁する瞬間を、草彅は表情と佇まいだけで見事に演じ分けていた。

特に第125話で、羽鳥とスズ子がバディとして歩んだ長い道のりをふり返り、対話をするシーンでは、両者の「表情演技合戦」がとんでもない境地に達していた。「僕は、いつしか君に嫉妬していたんです」「ワテはいつまでも先生の最高の人形でおりたかったんです」と、互いに自らの心の奥に問いかけて出てきた偽らざる思いを吐露するこの場面では、羽鳥とスズ子の来し方すべてが、表情と身体に乗っていた。2人は、刀で切ったら血が出る生身の人間、すなわち本当に「生きている」羽鳥善一と福来スズ子を演じ切っていた。

最終回のラストシーンは、スズ子の「いつもの朝」で終わった。家族とともに朝食をとりながら穏やかな時間を過ごすスズ子。食べて、笑って、生きる。歌手を引退しても、スズ子の人生はまだまだ続く。福来スズ子はこれからもずっと、「生きていく」。

参照
※ https://maidonanews.jp/article/15027323
(文=佐野華英)

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