命がけの合戦中でも「メイク」を欠かさなかった戦国大名とは

今でこそ「メンズメイク」という言葉があるくらい男性も身だしなみに気を使い、メイクをする人が以前よりも増えてきました。

とはいえ女性のように毎日メイクをしているという男性はまだまだ少なく、多様性が尊重される時代とはいえ、珍しがられることもあるでしょう。

しかし血で血を洗う戦国時代に、なんと毎日欠かさずメイクをしていた戦国大名がいました。

今回は、そんな戦国大名について紹介していきます。

目次

由緒ある大名・今川義元の貴族趣味

画像 : 今川義元(いまがわ よしもと)の浮世絵 public domain

まさに乱世という言葉がしっくりくる戦国時代に毎日メイクをしていた大名。

それは今川義元です。

もちろん今川義元が女装趣味だったとか、女性になりたかったとかいうわけではありません。
これは、彼の「貴族趣味」が高じた結果だと言われています。

今川義元といえば、織田信長に桶狭間の合戦で劇的な敗北を喫したことで知られています。
桶狭間の合戦では、信長本隊が奇襲をかけたことで今川本陣は大混乱。
大将同士が槍を手にとって奮闘する大混戦となったと言われています。

「信長公記」によると今川義元はこの混戦の最中、500人の供回りとともに退却しようとしますが、その部隊が信長の親衛隊である馬廻りに捕捉されてしまい、義元は信長の親衛隊の1人であった毛利良勝によって首を討ち取られてしまったのでした。

そんな最期を壮絶な最期を迎えた今川義元ですが、桶狭間の合戦以前は、今の東海地方にあたる駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河(みかわ)の3国を支配していた東海地方の覇者ともいえる存在でした。

そして義元の出身である今川家の元々のルーツは、足利尊氏に繋がると言われています。

今川家は足利家の分家である吉良家の分家として誕生。ちなみに忠臣蔵で有名な吉良上野介はこの家の当主です。
その家柄は「足利将軍家が絶えたら吉良が継ぎ、吉良が絶えたら今川が継ぐ」と言われていたほど。

万が一、足利将軍家の血脈が途絶えたら、吉良家と今川家は将軍として就任できるくらい由緒ある大名だったのです。

格式の高さを見せつけたかった?

画像 : 公家 イメージ

当時、戦乱で逃げてきた公家たちを義元が保護して文化を育成していたこと、そして義元の母、寿桂尼(じゅけいに)が京の藤原北家の公家出身だったことが、彼の貴族趣味に大きく影響していると言われています。

義元自身、若い時期に僧として京で学んだ経験があり、公家文化にも親しんでいたと言われています。
そして今川家は、前述したように足利将軍家の一門であり由緒ある格式の高い家柄。
身分の高い者しか許されなかった輿(こし)に乗ることも、例外的に許されていました。

また、当時は乱世という言葉がぴったりの下剋上の世の中ではありましたが、一方で天皇や公家という存在は、まだまだ大きな影響力を持っていました。

そのため当時の戦国時代においては、和歌を詠むなど教養があったり、公家文化に精通していたり、公家との人脈を持っていることなどが、その家の格式が高いことの証明でもあったのです。

格式の高い公家と同格であることを周囲に見せつけることで「私は他の大名たちとは格が違うのだよ」と権威を示して従属させたかったのでしょう。

合戦にもお歯黒と薄化粧で臨んだ今川義元

画像 : お歯黒の化粧をする女性 (『今風化粧鏡』、五渡亭国貞画) public domain

そんな彼が毎日欠かさず行っていたのが、歯を黒く染める「お歯黒」と顔の薄化粧でした。

「お歯黒って貴族の女性がするものでは?」と疑問に思った方もいるかもしれませんが、平安時代以降は男性もおしゃれのために歯を黒く染めるようになったと言われています。

ちなみに桶狭間の合戦で今川義元は首を討ちとられてしまいますが、このときにも顔にはお歯黒と薄化粧をしていたと言われています。

命を懸けた合戦でもオシャレを忘れなかった義元は、相当な貴族趣味の持ち主だったと言えそうです。

終わりに

命をかけて戦場に立つ一方で、外見にも非常に気を配った今川義元。

義元は織田信長にあっけなく負けてしまったり、公家風のお化粧をしたり…となよなよした弱者のイメージがついて回ることが多いですが、三ヶ国を治める大名としての器量は十分に持っていました。

東海一の弓取り」としての名は彼にふさわしいものだったと言えるでしょう。

参考 :
先生の雑談 日本史の時間 編集:雑談教育委員会
日本の武将31 今川義元 著:小島 広次

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