嵯峨景子の『今月の一冊』|第二十一回は『さらば東大 越境する知識人の半世紀』|日本を代表する知識人の最終講義

少女小説研究の第一人者である嵯峨景子先生に、その月に読んだ印象的な一冊を紹介していただく『今月の一冊』。21回目にお届けするのは2023年12月に集英社から発売された『さらば東大 越境する知識人の半世紀』です。吉見研に所属されていた嵯峨先生ならではの視点で、思い出や本書の魅力を語っていただきます!

「嵯峨景子の今月の一冊」、第21回です。このところ過労と体調不良が重なり、1月と2月は連載を休載させていただきました。休んだおかげで体調も回復したので、今月からまた毎月心に響いた本を紹介していきます。ご挨拶が遅くなりましたが2024年も引き続きよろしくお願いいたします。

今回取り上げるのは、2023年12月に刊行された社会学者・吉見俊哉の『さらば東大 越境する知識人の半世紀』(集英社新書)です。

ちょうど一年前の2023年3月、定年を迎えて東京大学を退職される吉見俊哉先生の最終講義「東大紛争 1968-69」が安田講堂で行われました。演劇というバックグラウンドをもつ吉見先生が、無人の安田講堂で演じた壮大かつ知的刺激に満ちたパフォーマンス。私は自宅のYouTubeでこの最終講義を視聴しながら、一つの時代の終わりを感じていました。

※本書には最終講義「東大紛争1968-69」の完全版も収録されています

1957年生まれの吉見俊哉は社会学者・見田宗介門下で学び、1987年に東京大学新聞研究所の助手に採用。同年に初単著『都市のドラマトゥルギー ――東京・盛り場の社会史』(弘文堂)を上梓します。

2004年からは東京大学大学院情報学環教授を務め、その後は学環長や東京大学副学長なども歴任しました。その間に社会学や都市論、メディア論やカルチュラル・スタディーズ、大学論やアメリカ論など多種多様なテーマに取り組み、精力的に研究成果を発表しています。日本の社会学を牽引した研究者のひとりであり、とりわけ日本におけるカルチュラル・スタディーズの発展では中心的な役割を果たしました。

ものすごく不出来な学生だったので書くのも恥ずかしいのですが、実は私も吉見先生のもとで学んだ学生のひとりです。2005年に東京大学の学際情報学府の修士課程に入学し、2015年に博士課程単位取得退学するまで、紆余曲折を経ながらも吉見研に所属してお世話になりました。今はアカデミアから離れてライター・書評家として活動しているので、研究という意味では私の大学院生活は実を結んでいません。けれども大学院で、とりわけ吉見ゼミを通じて身につけた知識や方法論は私の血肉となり、自分なりの方法論で文筆業を続ける支えになっています。

『さらば東大 越境する知識人の半世紀』は大反響を呼んだ吉見俊哉の最終講義を採録した一冊ですが、内容はそれだけに留まりません。吉見先生のこれまでの学問遍歴を振り返るべく、かつての門下生が集結して「特別ゼミ」を開催。「都市、メディア、文化、アメリカ、大学」という5つのテーマを切り口に、吉見俊哉と教え子たちが徹底討論を行いながら、彼の学問の軌跡を振り返りつつ研究の核心に迫っていきます。この対話で用いられている手法は、吉見先生がかつて大学院の授業で行っていた「アタック・ミー!」という、参加学生が吉見先生の著作を取り上げて徹底的に叩くというものの再現です。かつて「アタック・ミー!」に参加していた者としてはこのスリリングなやり取りが懐かしく、しばらく忘れていた大学院時代の授業風景まで蘇ってくるようでした。

新書というコンパクトな形式で、吉見俊哉の研究とこれまで発表してきた著作を紹介する『さらば東大』。本書は社会学という学問や日本の知のあり方について学べる刺激的な一冊であり、吉見俊哉の世界を知る最良の入門書ともいえるでしょう。

中でも自分の関心ととりわけ重なるのは、序章から第一章あたりまでの内容です。吉見俊哉は東京大学学部時代に演劇サークル「劇団綺畸」に所属し、如月小春らとともに演劇にのめり込んだというのは経歴としては把握していたものの、この時代のことはあまり知りませんでした。吉見俊哉の研究で大きな役割を果たしている「演劇」について、演劇青年時代の思い出と、演劇から得た問題意識を研究に昇華し、都市論へと結びつけていく。序章の「演劇から都市へ ――虚構としての社会」は吉見俊哉の原点が垣間見えるパートでした。

続く第1章「都市をめぐるドラマ・政治・権力」では、多種多様に見える吉見俊哉の研究テーマが、実は「すべて都市論である」と語られ、最初の著作である『都市のドラマトゥルギー ――東京・盛り場の社会史』についての話が掘り下げられていきます。対話の中では、

「吉見ゼミで他ならぬメディア研究を学んだ門下生としては、『メディアじゃないんだよね、都市なんだよね』と言われてしまうとショックなのですが……なぜ『都市』なのでしょうか」

と、やや困惑ぎみに問う門下生の言葉が登場します。かつて「書評家・嵯峨景子の『転換点となった5冊』」でも吉見先生の『メディア論』を紹介したように、私はメディア論を学びたくて吉見ゼミに進学しました。当然のごとくメディア論の代表的な研究者として吉見先生を捉えていたはずが、予想外の吐露に戸惑う門下生の様子には、笑いつつも思わず感情移入してしまいました。『さらば東大』を通じて、吉見先生の関心が一貫して「都市」にあり、さまざまなテーマや分野の越境もすべて都市論から生まれているという背景が興味深かったです。

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ここでは紹介しきれませんが、他にも「メディアと身体」「文化と社会」「アメリカと戦後日本」「都市としての大学」など、さまざまな論点が掘り下げられています。日本社会を捉えるうえで刺激的な視点がいくつも提示される本書を通じて、ぜひ吉見先生の研究世界にふれてみてください。

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