こんなに硬そうなタイトルの本が、こんなに面白いなんて

ドラマや映画などの制作に長年携わってきた読書家プロデューサー・藤原 努による、本を主軸としたカルチャーコラム。幅広い読書遍歴を樹形図のように辿って本を紹介しながら、自身の思うところを綴ります。

今回紹介いただく本は、『日本精神史 近代篇』、『昭和史発掘』……。少し手に取りにくいという方も多そうな硬いタイトルの本ですが、ノンフィクションが好きな方にぜひおすすめです。

『日本精神史 近代篇』上下巻。

僕はこの大冊をこの二ヶ月ほどの間、あいまあいまに慈しむように読みました。

今の若い世代の人たちが、学校の歴史の授業でどの程度の新しい時代までを学ぶのか、子どももいないのでよく知らないのですが、少なくとも僕たちバブル世代の幼い頃は、第二次世界大戦後も教科書には書かれていても、授業では明治維新ぐらいで時間切れになってしまうのが常だったと言う覚えがあります。

それを見越してなのか、学校の定期試験でも(あるいは入学試験でさえ)、20世紀に起きた事柄が設問に入るのは稀で、自分で言うのも何ですがそこそこ勉強もして偏差値もまあまあ高かったのに、日本と中国がかつて太平洋戦争に先駆けて血で血を洗う戦争をしたことなど、大人になるまで知らなかった、と言う体たらくなのです。

高校の時に、「現代国語」の教科書の副読本として渡された「日本文学史」みたいなやつだけが面白くて、えらい作家もすごい不倫とかするんだ!と知ってほくそ笑んだりはしていたのですが。

そんな僕は、大学をふわふわと卒業して、単なるミーハー心の赴くままに芸能プロダクションに入社して、9年弱をタレントのマネージャーとして過ごし、人事異動で番組の企画制作をする部署に移りました。僕はその時点ですでに33歳。同じ会社とは言え、全く毛色の違う仕事に携わるのは今さら遅いねかわいそうに、と言う目線で周囲から見られているのも感じていました。

実際、自分の企画なんてなかなか通らず、でもまあ会社員なので給料は出るので、ここから僕の人生で初めての“図書館時代”が始まりました。

暇であることをいいことに、“企画のための資料探し”と言う名目で図書館に入り浸ったのです。会社が割と鷹揚だったのか、あるいは見捨てられていたのか、ほとんど咎められることもなく通い、読み始めたのが、松本清張の12巻に及ぶ『昭和史発掘』と言うシリーズです。

それまで清張の小説は『点と線』を読んだことがあるだけだったのですが、何かのきっかけで『地方紙を買う女』と言う短編を読んだらべらぼうに面白くて、そこから清張はどうやら短編のほうが面白いらしいと言うことに気づき、読み漁るようになりました。時代や社会に翻弄される主人公がとにかく多いのです。その流れでこの作家は、“運命に翻弄される人間”を軸にさまざまなノンフィクションも書いていることを知り、そこから『昭和史発掘』へ手を出してしまうのはもはや自然な流れでもありました。

何せ目次を見ると、「スパイMの謀略」「宮中某重大事件」から「潤一郎と春夫」「小林多喜二の死」にいたるまで、よくわからないけど僕的にはそこはかとなく面白そうに思えるにおいが満ち溢れてました。

そんな時代を経て、僕は明治維新以降の日本の近代史というものに対して、いかに無知であったかと言うのに気づくこととなったのです。

そこからの20年ほど、折に触れて、近代の日本史の政治的、社会的、文化的な事件などを目にする度、ある種の驚きや切なさを伴いながら、そんなことを実際にやってしまう人がいるんだーと、反芻のようなことを繰り返してきました。

たぶん僕は、エピソード、と言うものがこよなく好きなんだと思います。その意味で根がワイドショー的なのかもしれません。と言っても『ワイドナショー』以外、ワイドショーはほぼ見ません。が、松本人志不在のワイドナショーもかなりつまらなくなってきました。社会的運命と言うのもほんと皮肉なものですね。

話がそれましたが、その意味で『日本精神史 近代篇』と言うタイトルを見つけ、その目次を確認したら、もうこれは読まないわけにはいかないなと思ったのでした。

著者である長谷川宏と言う人は、在野の哲学者らしいのですが、学習塾で教え続け、さまざまなテーマでの読書会なども開いている人であるらしい。

その意味で、たくさんの人との対話や雑談を通して、この著作が書かれたと言うことがわかってきます。

だって、福澤諭吉や森鷗外、夏目漱石から岸田劉生、松本竣介のようなそこまでメジャーとも言えない画家、大西巨人、中上健次から唐十郎、つげ義春、宮崎駿にいたるまで、それぞれの作品の中から、これは、と言うものを選び、読んだこと見たことない人にも伝わるようにあらすじや成り立ちを解析し、なぜそう言うものをその作家は作っていこうとしたのかに、思いを巡らせるのです。

なぜある作家や作品を選び、なぜ選ばなかった作家や作品があるのか、それを考えたら恣意的だと思う向きもあるでしょうし、実際そう言う面もあるでしょう。

太宰治も三島由紀夫も松本清張も村上春樹も取り上げられていませんし。

むしろあえて意外にふつうの人が見落としてしまいそうなものに丁寧に焦点を当てている気もします。

福澤諭吉にこんな面があるのも初めて知ったし、樋口一葉の『にごりえ』という作品がこんな内容であるのも恥ずかしながら初めて知りました。森鷗外はその家族の話なども含めて僕自身かなり興味を抱いていろいろ読んではきたのですが、鷗外が晩年『渋江抽斎』などの当時の世間的にもあまり名を知られていない人物の評伝を書くようになり、一体それはなぜなのか、でもそれを読む気も時間もないなーと思っていたら、この本の中で丁寧に説明されていてかなり合点がいきました。

一方でここ数年、僕はたまたま何度か美術館で目にした松本竣介の『Y市の橋』と言う絵が気になってしまい、しかし画家のことも作品のこともよく知らずにやり過ごしていたのですが、今回この本で、そう言う人であり作品であったのか!と言う思いになり、人間とその作品に対する著者の洞察はハンパないものがあるなと改めて感じ入りました。

やっぱりこの著者が、アカデミズムを離れて、ふつうの人たちとの対話を重視した上でこの本を書いたと言うことが大きく影響している気がします。

そんなわけでこの著者の前著に当たる『日本精神史』も購入してしまいました。こちらは神世の古代史から、源氏物語、親鸞その他もろもろについて書かれていて、これもかなりの評価を得た作品であるらしいです。やっぱりエピソード好きの血が騒ぎます。

町田康の『口訳 古事記』と言うのもこの前読んだのですが、イザナギ、イザナミの話なんて、このルッキズム時代に読むと、昔の人はほんとうに身も蓋もないことを平気で書くな、と思ってしまいます。同時にモラルも何も気にせず、思ったように書いて何が悪い?みたいな姿勢に一種の憧れも見出してしまうのです。

この1月クール『不適切にもほどがある』という連続ドラマがバズっていますが、そろそろアンチコンプライアンスみたいな風潮が起こってきてもいい頃じゃないかと思います。でも正面切ってやると、やっぱり叩かれちゃうんですかね。


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comment:#ダメ業界人の戯れ言

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