1歳になっても歩かない、しゃべらない息子。原因がわからず不安で孤独な日々…。4歳半で国内に数名しかいないポトキ・ラプスキー症候群と判明するまで【体験談】

生後0日のころのたいちくんと初対面したとき。

東京都に住む南里(なんり)健太さん(42歳)は、妻(41歳)と長男のたいちくん(6歳・年長)の3人家族です。
南里さん夫婦はたいちくんが生まれて3カ月ごろから、発達の遅れが気になっていました。いろいろ検査をしても原因がわからない日々が続きます。たいちくんの乳幼児期の成長の様子について、健太さんに話を聞きました。全2回のインタビューの1回目です。

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結婚5年目に授かった赤ちゃん。でも発達が遅い・・・?

――夫婦の出会いから、たいちくんを妊娠したころのことまでを教えてください。

南里さん(以下敬称略) 妻とは、たまに食事をしていたスポーツバーで知り合ったのがきっかけで、僕が24歳のころからおつき合いをして、5年後の2012年に入籍しました。
僕は専門学校を卒業後からイタリアンレストランや割烹料理店で料理人をしていたんですが、結婚したころは、居酒屋チェーンの店長として働いていました。新店舗の開店業務などもあって朝から晩まで忙しくしていて、気がついたら結婚からあっという間に5年ほどがたっていました。
そのころ妻と「そろそろ子どもが欲しいね」と話すようになって、子どもをもとうと思ったらすぐに妻の妊娠がわかりました。

――子どもを授かってどんな気持ちでしたか?

南里 仕事の関係で妊婦健診に一緒に行くことはほとんどできませんでしたが、赤ちゃんのエコー写真を見たりすると、「自分が親になるんだなぁ」って、不思議な気持ちになったことを覚えています。妻は30代前半のころに子宮筋腫の手術をしていたので、予定帝王切開で出産することとなりました。

帝王切開分娩は、2017年12月27日に。その日は仕事を休み、手術室の前で赤ちゃんの誕生を今か今かと待っていました。たいちは午前10時ごろに生まれました。たいちと対面したときには、とにかく母子ともに無事でよかった、と、心からほっとしました。

「耳が聞こえないかも・・・」と言われて不安になったことも

1歳3カ月のころのたいちくん。

――たいちくんが赤ちゃんのころの成長の様子はどうでしたか?

南里 実は生まれてすぐの聴覚検査で、「耳が聞こえていないかもしれない」と言われたんです。妻も僕も心配で心配で・・・耳元でビニール袋をカシャカシャさせてみたり、手をパン!とたたいてみたりして、たいちがビクッと動いたら「やっぱり聞こえてるんじゃない?」と、2人でいろんなことを試していました。でも1カ月健診で問題ないことがわかってひと安心でした。

ところが、今度は成長するにつれて、母子健康手帳に書いてある成長の目安よりも発達がだいぶゆっくりだな、と感じるようになってきました。

――どんな様子だったのでしょうか?

南里 身長と体重は成長曲線の正常範囲なんですが、寝返りもおすわりもいっさいしませんでした。座らせようとしても、体がくにゃくにゃして座れないんです。育休を取って子どものお世話をしていた妻は、心配してよくネットで発達のことを調べていました。

9~10カ月健診のころ、ほかの赤ちゃんたちがはいはいをする時期にも息子はまったく動きませんでした。練習させようとうつぶせにするとすごく嫌がるんです。妻は健診で医師によく相談していました。すると、「成長には個人差があるから様子を見ましょう」「そんなに気にしなくて大丈夫」と言われていたそうです。でも今となっては、あのときもっと詳しい検査をしてほしいと言える環境だったら、もう少し早く診断がついたのかもしれないな、と思っています。

――いつごろまで発達の様子を見ていたのでしょうか。

南里 たいちが1歳半になるころ、ベビーカーでお散歩に出かけると、公園で同じくらいの年齢の子が、ボールやすべり台で遊んだり、よちよち歩いたりしているのを目にしました。でもたいちは座れないし、はいはいもしないし、歩けないのでベビーカーから下ろすことができません。妻はたいちの様子を「明らかにまわりと違うね、心配だね」と言っていましたが、妻は僕よりずっとプラス思考の人なので、気にしすぎるような感じではなかったと思います。

2019年の夏ごろの1歳半健診でも、ほかの子たちがひとり歩きをするなか、たいちだけが低月齢の赤ちゃんのようにコロンと寝ている状態でした。これはさすがに発達が遅すぎる、ということで、ようやく療育センターを紹介してもらえることになりました。

嫌がる療育に通いつづけた、苦しい日々

4歳半のころ、検査入院をしたたいちくん。

――療育センターではどんなことをしましたか?

南里 療育センターは自宅から車で50分ほどの距離にありました。週2回、45分程のPT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ST(言語聴覚士)による療育を受けました。素人目では子どもとおもちゃで遊んでいるだけのように見えるような内容でしたが、その遊びにも必ず意味があるそうです。
おもちゃを目で追えているか確認したり、視界から消えたおもちゃがどこから出てくるかを予測できているかをチェックしたり、それらを繰り返してうながしていると聞きました。

あとは、当時たいちは歩けなかったので、歩く準備をするためにはいはいの姿勢をさせたり、筋肉をほぐす処置をしたりも。ごはんを食べるときにそしゃくをしっかりさせることで、言葉の発音につなげるような内容もありました。

そのほかに、母子通園というプログラムもあって、午前中に妻とたいちが一緒にセンターへ行って、歌を歌ったり踊ったり、季節のイベントに参加したり、本を読んだり、といったこともしていました。

2020年に入ると、コロナ禍で飲食店が営業自粛になったこともあって、僕も療育のプログラムに参加することができました。療育を受けて、たいちに目に見えてできることが増えるわけではありませんでしたが、僕も見学をしながら「家でもこうやって遊んであげればいいのかな」と参考にしていました。

――たいちくん本人はどんな様子だったのでしょうか。

南里 楽しんで通えていればよかったんですが・・・たいちは療育を泣いて嫌がることも多かったです。センターへ着くなり嫌がって大泣きしてしまうので、僕が抱っこをしてカーテンの影に隠れてずっとあやし続けたことも何度もありました。ちっとも泣きやまずに45分間ずっと抱っこであやした挙げ句、「今日はもうお時間です」と帰らなくてはならないこともありました。

あの時間は、とても苦しかったです。たいちの発達が心配でたまらないのに、今日、僕たちはいったい何をしに来たんだろう、と帰りの車で涙したこともありました。
成果につながっていないこともつらかったし、息子が泣くほど嫌なことをさせているというのも苦しかったんです。

――少しずつでもできることが増えたり、何か原因がわかったりしたのでしょうか。

南里 療育センターでいろいろな検査をしましたが、たいちの発達の遅れの原因はわからないままでした。僕たちは原因を早く知りたいと思っていました。発達遅延の原因さえわかれば、寄り道せずに対処法にたどりつけると思っていたんです。そんなふうに療育センターに通う状態は2年ほど続いたと思います。

そこで、たいちが3歳を過ぎたころ、療育センターの医師に「これだけ発達が遅れていて、なにもないはずがない。どうしてこんなに診断がつかないんですか」と強く訴えたんです。そうしたら、世田谷区にある国立成育医療研究センターでの検査を紹介してくれて、予約をすることができました。

――いつごろ、どんな検査をしましたか?

南里 2021年4月に予約の連絡をし、半年後の10月にようやく検査入院することになりました。検査入院では、マイクロアレイ検査という遺伝子検査をして、結果が出るのを待ちました。
ところが、1カ月後に出た検査結果は「問題なし」というものでした。そんなはずはない、という思いが強かったです。たいちの発達の様子はほかの子と比べてこんなに違うし、遅いのに、問題がないはずないだろう、と感じました。

そこから「さらに詳しくデータを分析します」と言われ、半年後に国立成育医療研究センターから連絡がありました。分析に時間がかかった項目の検査結果が出たとのことでした。そのためもう一度検査結果を家族で聞きに行くことにしました。

4歳半で、国内に8人しかいない難病、ポトキ・ラプスキー症候群と診断

たいちくん2歳半のころ。ようやく1人でおすわりができるようになりました。

――再度の検査結果が出たときのことについて教えてください。

南里 2022年6月末、たいちが4歳半のころでした。国立成育医療研究センターに結果を聞きに行くと「希少難病の“ポトキ・ラプスキー症候群”で、患者数は国内でたいちくんを含め8名(2022年当時)。今の医学では治療法がない病気です」と言われました。

ずっと求めていた病名がやっとわかった、との思いもありました。でも、「治療法がない」と言われてしまい、苦しいし、そして悔しい思いでいっぱいでした。その日から、親としてこの子のために何ができるか毎晩のように考える日々が続きました。

――診断を受けて、夫婦で話し合ったことはありますか?

南里 たいちは、よく笑う子なんです。このかわいい笑顔を絶やさないように、生まれてきてよかった、と思える人生にしてあげたいね、と妻とよく話しています。そのためには、治療法がないたいち自身をどうにかするよりも、たいちに合わせた環境を用意してあげることが、彼がより生きやすくなることにつながるんじゃないか、と考えるようになりました。

――ほかの家族にはたいちくんの状況をどんなふうに話しましたか?

南里 診断がついてよかったことは、家族や友人にたいちのことを説明しやすくなったことです。僕たちがたいちの発達のことや、療育のことで悩んでいたころは、ちょうどコロナ禍で親せきの集まりもなく、たいちがみんなと会う機会もありませんでした。
電話やメールで「発達が遅いんだよね」と言っても、「男の子ってだいたい遅いからね」と言われてしまうんです。息子を実際に見てみないと、その状況はわかってもらえないと感じていました。わかってもらいたくてもうまく説明ができないから、話すことをあきらめたような、隠し事をしているような気分でした。妻以外に相談できないことは、苦しかったです。

ポトキ・ラプスキー症候群という難病だと診断がついて、両親にたいちの疾患を説明したときには、とてもびっくりしていました。
僕たちとしては、やっと周囲の人たちに話せることができるようになった、と少しだけ心が軽くなりました。

お話・写真提供/南里健太さん 取材協力/ヒトノワ南大泉教室 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

たいちくんの発達の様子を不安に思っていた時期、コロナ禍でもあり相談できるところが少なく、「孤独で苦しかった」と健太さんは言います。
次回の内容は、健太さんが難病家族会を設立し、さらに児童発達支援事業を開設したことについてです。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

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