『アメリカン・フィクション』現代のステレオタイプを皮肉なスタイルで暴き出す

『アメリカン・フィクション』あらすじ

アフリカ系をルーツに持つセロニアスは、大学で教えながら小説の執筆活動を続けている。しかし彼の新作の原稿が「黒人らしくない」という理由で出版社から拒絶されてしまう。彼はステレオタイプの黒人の物語を求める文学界と、それを迎合する若手作家たちに嫌悪感をおぼえる。やけになったセロニアスは、自分が最も嫌っている、いかにもステレオタイプな要素で埋め尽くされた「黒人小説」を書き上げる。そして別名を名乗り、出版社に送りつけた。しかし予想外にも、その小説は出版社に絶賛され、映画化の話まで舞い込むほどのベストセラー作品になってしまう…。

現代社会の異様さを描く皮肉の効いたコメディ


第96回アカデミー賞に5部門でノミネートされ、惜しくも作品賞は逃したものの脚色賞を獲得したのが、現代社会の異様さを描く皮肉の効いたコメディ映画『アメリカン・フィクション』(23)だ。この作品に注目したいのは、なんといっても過激さと知性が混在したユーモラスかつ意外な展開の数々。この見事な脚本は、脚本家コード・ジェファーソンの手によるものであると同時に、本作が彼の最初の監督作であることは驚きといえる。

そんな『アメリカン・フィクション』の原作となったのは、南カリフォルニア大学の英語教授で、作家でもあるパーシヴァル・エヴェレットによる『Erasure』。タイトルは日本語で「抹消」を意味する。

映画でジェフリー・ライトが演じる主人公は、パーシヴァル・エヴェレット本人のように、大学で教えながら小説の執筆活動を続けている男性、セロニアスだ。偉大なジャズピアニストであるセロニアス・モンクの名を連想させることから、“モンク”というあだ名を持つ。彼の性格はセロニアス・モンク同様、理論家で内省的かつマイペース、こだわりの強い人物である。そして何より、自分のルーツであるアフリカ系に対する固定的な見方(ステレオタイプ)を当てはめられることや、白人社会に都合よく扱われることに、誰よりも嫌悪感をおぼえている。

『アメリカン・フィクション』©2023 MRC II Distribution Company L.P. All Rights Reserved.

セロニアスはある日、講義のなかで南部ゴシック文学の作家フラナリー・オコナーの短編作品「人造黒人」を紹介し、その際に原題に使われている黒人の蔑称「Nワード」をボードに書き、学生がショックを受けるというトラブルが起こったことで、大学から休職を命じられる。そこに妹リサ(トレーシー・エリス・ロス)の突然の不幸や、母親アグネス(レスリー・アガムズ)の病気が発症してケアが必要になるなどの出来事が重なったことで、精神的にも経済的にも厳しい状況に置かれてしまう。

セロニアスは作家として次回作に行き詰まっていたが、この絶望的なタイミングで、自分の最も嫌っている、いかにもステレオタイプな要素で埋め尽くされた、彼にとって悪夢のような「黒人小説」を書き上げることを思いつく。そして別名を名乗り、嫌がらせ半分、腹立ち紛れで出版社に送りつける。もちろん良識ある編集者たちは眉をしかめ拒絶することになるだろうが、それこそが彼なりの社会に対する皮肉な提言でもあったのだ。

だが、そんなめちゃくちゃな作品が何と大きな評判を呼ぶ。あらゆるステレオタイプを詰め込んだ小説「マイ・パフォロジー」は出版社に絶賛され、謎の作家の鮮烈なデビュー作として、セロニアスが経験したことがないほどに売れまくり、映画化の話まで舞い込むほどのベストセラー作品になってしまうのだ。

コラライン(エリカ・アレクサンダー)という恋人との関係が始まったばかりのセロニアスは、良心の呵責と嫌悪感をおぼえながらも、FBIに追われる犯罪者でもあるという設定の、ワイルドな新人作家を装い始める。繊細な性格と犯罪とは縁のない境遇ながら、正反対の人物をタフぶって演じているジェフリー・ライトのパフォーマンスは笑いを誘う。

黒人に対するステレオタイプへの嫌悪


とはいえ、映画『ムーンライト』(16)において、アフリカ系でゲイの主人公が、フロリダの荒廃した地域で生き残るために真逆のような人物像を演じなければならなかったことを思い起こせば、自身が周囲から異端的な立場にあったり、マイノリティだと考える人物が、自分と程遠いステレオタイプを体現することは非常に悲痛な行為だということに思い至るのではないか。本作においても、長い間ゲイであることをカミングアウトできなかった、セロニアスの兄クリフォード(スターリング・K・ブラウン)が、家族から偏見を持たれることに打ちひしがれる場面がある。

だが、本作がユーモアたっぷりのコメディであることに間違いはない。内省的な要素が散りばめられながら、ステレオタイプを嫌う人物がステレオタイプを装うという、原作のパワフルでキャッチーな展開の訴求力が大きいために、映画化が実現されることとなったのも確かだろう。その意味では、パーシヴァル・エヴェレット得意の“メタフィクション”が、この映画作品においても別個に機能しているといえよう。フランスのシャンソンが基となっているジャズのスタンダード「Autumn Leaves(枯葉)」が寂しく流れる本作のラストシーンでは、ハリウッドのスタジオが俯瞰で映しだされ、小説から映画への移行がおこなわれていることが分かる。

『アメリカン・フィクション』©2023 MRC II Distribution Company L.P. All Rights Reserved.

本作で扱われる、黒人に対するステレオタイプへの嫌悪は、パーシヴァル・エヴェレットの作家としての大きなテーマでもある。原作小説「Erasure」の後に書かれた「I Am Not Sidney Poitier(僕は“シドニー・ポワチエじゃない”)」では、「ノット・シドニー・ポワチエ(シドニー・ポワチエじゃない)」という奇妙な名前を持った主人公の少年が、有名俳優シドニー・ポワチエの出演映画の内容が反映された出来事の数々を経て、むしろシドニー・ポワチエに近づいていくという、狂気を帯びた物語が展開していく。

そこに反映されていたのが、シドニー・ポワチエという俳優への“イメージ”である。ポワチエといえば、黒人として初めてアカデミー賞主演男優賞を受賞するなど、アメリカにおいて評価された黒人俳優のパイオニアといえる偉大な存在だ。しかし一方で、ハンサムでさわやかな彼の完全無欠なナイスガイぶりのなかに、同じアフリカ系の人々にとって白人に気に入られる優等生的な部分を感じ取ることになったのも事実なのである。

シドニー・ポワチエが俳優として活躍し始めた1950年代は、黒人への差別や弾圧がより苛烈であったことは言うまでもない。“黒人は野卑で犯罪を好む”という、多くの白人の差別的な偏見のなかで俳優として成功していくためには、当時のステレオタイプであった、ひどい負のイメージとは反対の人物を体現しなくてはならなかったはずである。そして、差別が社会のなかで比較的緩やかになっていく過程において、そんな“白人に受け入れられる善良な黒人”もまた、一つのステレオタイプとなっていったのだ。

物語に反映された、監督自身の経験


本作の冒頭でセロニアスが学生たちに紹介していた南部ゴシック文学「人造黒人」もまた、黒人のステレオタイプがテーマとなった物語だった。ある貧しい白人の祖父と孫が、アフリカ系が多く住む地域に迷い込む。祖父は黒人に強い偏見があるが、黒人ばかりの場所のなかでは彼の方がマイノリティとなり、むしろ周囲から嘲られるような行動をとってしまうのである。不安になった彼は、その後偶然に、白人の居住するエリアで“スイカを食べる黒人”の像を見つけることになる。

“黒人はスイカが好き”というのは、偏見にまみれたステレオタイプとして知られている。そんな白人による“イメージ”が投影された像を前にしたことで、祖父は奇妙な安心感を覚える。実際は黒人も白人と同じようにさまざまな性質を持った多様な存在であり、当然自分よりも優れた部分を持った人がたくさんいるはずなのである。だが、その事実を受け入れ難い祖父は、像を眺めることで、あるイメージに黒人の存在を押し込め直し、ふたたび精神の安定を得るというプロセスを経験するのだ。

セロニアスは、この優れた文学作品を通して、学生に差別者の感情を踏み込んで解説し、ステレオタイプが求められる構造を説明したかったはずである。その際に差別的な言葉に違和感をおぼえて講義を拒否した学生は、差別構造について深く考えたり議論する手前で離脱してしまったことになる。目の前のセロニアスの言葉や意見を表面的な段階で受け入れられないという態度は、程度は違えど「人造黒人」の祖父の行動と本質的に繋がるところがあるのではないか。

そんな構図は、文学賞の審査の場面でも見ることができる。セロニアスはそこで、自身が書いたあの小説を審査するという、この上なく皮肉な状況に対峙するのだが、黒人の審査員であるセロニアスとシンタラ(イッサ・レイ)による「内容があまりにもわざとらしい」とする主張に対し、白人の審査員たちは逆に、「これこそがリアルな黒人の声だ」と判断し、あまつさえ目の前の黒人審査員の意見を無視してしまうのである。

『アメリカン・フィクション』©2023 MRC II Distribution Company L.P. All Rights Reserved.

コード・ジェファーソン監督もまた、過去に黒人奴隷や黒人の若者が警官に殺害される題材を要求されたことがあるのだという*。それもまた、一種の“黒人らしさ”を要求される行為である場合もある。こういったジェファーソン監督自身の体験が、本作の終盤で描かれる映画プロデューサー(アダム・ブロディ)の要求に反映されている。

ただ一方でジェファーソン監督は、“黒人らしさ”が反映された作品を制限したり批判するような意図を本作に込めたわけではない、という意図を明かす発言もしている。本作の内容が、“ハリウッドで重視されてきているポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさの概念)とリアルな黒人の声の乖離”を揶揄していると受け取られるおそれがあるのも、設定の性質上、確かなのだ。

ここで監督は、そういう曲解を避けるために、“黒人らしさ”を受け入れ、商業的な需要を最低限満たしながら、自分らしい意義ある執筆をしている作家シンタラとの議論の場面を、映画化の際に付け加え、現実におけるさまざまな作家、作品をも肯定している。この工夫によって、誤解されかねないテーマの上でのバランスをとっていると考えられる。

本作『アメリカン・フィクション』は、はっきりとした言葉にされない、社会に隠された偏見や差別を掘り起こし、いま考えるべき要素や重要なテーマをユーモアとともに観客を楽しませながら提示している。そんな周到さによって、本作は観客たちを、この問題を考えたり議論せざるを得ない状態に置くことに成功しているのである。

* )https://www.esquire.com/jp/entertainment/movies/a60069125/cord-jefferson-american-fiction-interview/

文:小野寺系

映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。

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『アメリカン・フィクション』

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