【独占】三好康児「アカデミー史上最高傑作と呼ばれて」インタビュー前編

バーミンガム・シティ MF三好康児 写真:Matt O’Neil

かつて川崎フロンターレの下部組織で「アカデミー史上最高傑作」と呼ばれたMF三好康児も、今年で27歳。2015年に18歳で川崎のトップチームに昇格した天才レフティは、国内外クラブを経て2019年にベルギー1部のロイヤル・アントワープへ完全移籍し、2021年には東京オリンピックの日本代表メンバーにも選出された。しかし同年10月を最後に代表への招集はなく、2022/23シーズンには左膝の前十字靭帯損傷によりFIFAワールドカップカタール2022への出場は叶わなかった。

現在はチャンピオンシップ(イングランド2部)のバーミンガム・シティでプレーしている三好。カラバオ・カップで優勝するなど古豪としても知られ、2010/11シーズンにはプレミアリーグ(イングランド1部)に所属していたバーミンガムだが、翌シーズンから現在まで10年以上にわたりチャンピオンシップの常連に留まっている。

東京五輪で共にプレーしたDF板倉滉(ボルシアMG)やMF三笘薫(ブライトン・アンド・ホーブ・アルビオン)、MF堂安律(SCフライブルク)、MF久保建英(レアル・ソシエダ)が欧州トップリーグで活躍するなか、イングランド2部を新天地に選んだ三好にこれまでの軌跡と自身の現在地についてインタビューを行った。


インタビューを受ける三好康児 写真:Matt O’Neil

「アカデミー史上最高傑作」と呼ばれて

1997年3月生まれの三好は、小学5年生の頃から川崎フロンターレのアカデミーに所属。中学2年次からはU-18チームに飛び級で参加するなどその天才ぶりがサッカー関係者の間で知られるようになっていた。当時すでに将来が嘱望されていたジュニアユース時代について訊いた。

ー川崎のアカデミーに入ったきっかけは?

三好:僕が4年生の年にフロンターレのアカデミー(ジュニアチーム)ができたんです。近くの隣のチームで仲良くしていた選手がフロンターレのジュニアに入って、次の年に「セレクションがあるんで興味ない?」みたいな感じで誘ってくれました。力試しに受けてみようかな、くらいの感じで受けたら受かったので入りました。

ー「アカデミー史上最高傑作」と呼ばれていることはご存知ですか?

三好:まあまあ、そう言われながら何とかプロになりましたけど(笑)その当時はアカデミーからプロになる選手がそんなに多くなかったですし、僕と板倉(滉)が6年ぶりにユースからトップチームに昇格したのでジュニアから上がってきた選手として期待を受けていたイメージはあります。

ーアカデミーで学んだことで現在プロになっても活かされていることはありますか?

三好:もう基盤はすべてアカデミーなので。小学校の時からサッカーだけじゃなく、私生活の部分もめちゃくちゃ怒られたりしましたから。やっぱり小学校、中学校、高校年代ってそれぞれいろんな誘惑もあるし、成長過程でいろんなことがあるなかで本当に教育してもらったと思っています。自分の考え方だったり、いろんなものが構築されて今につながっていると思います。

ー誘惑という話でしたが、遊びたい気持ちへの対応が大変でしたか?

三好:正直、僕自身はそうじゃなかったんです。サッカーが遊びで、普段から学校が終わったらそのままサッカーしに遊びに行っていた感じなので。でも同い年で他の遊びの方に流れちゃう人とか、川崎なんか特にやんちゃな人が多いのでそっちのグループに流れちゃう人とかいて、途中で抜ける選手もいっぱいいました。自分はプロになりたいという目標があったので、そこはブレなかったですね。


板倉滉(左)谷口彰悟(中)三好康児(右)写真:Getty Images

三笘、田中碧、板倉らとも一緒に

ーいつからプロを目指していたのですか?

三好:小学校に上がる時に、ちょうど2002年日韓ワールドカップがありました。6歳~7歳とかでそれを見て「プロになりたいな」「ワールドカップに出たいな」って思いましたね。当時それが僕の夢でした。

ーアカデミーでは田中碧選手や三笘薫選手と一緒だったんですよね?

三好:三笘は一緒にやっていました。三笘はなんなら僕より1年先に入ってました。(学年で)1個下は最初3人しかいなかったんです。三笘は小学校の時からずっとやってましたね。田中碧は僕と同じタイミングで入ったんですけど、学年的には2個下なんで一緒にやったりする時もあった、って感じですかね。

ー三笘選手や板倉選手たちとの仲はどうですか?アカデミー時代に喧嘩などは?

三好:三笘はないですね。1個下なんで、それこそ(僕と)喋る時も敬語ですし。小学校の時とかタメ口でしたけど、中学ぐらいで気づいたら敬語になってました。

板倉は同い年なんでずっと一緒にやってました。仲もいいですから今でもしょっちゅう連絡とります。僕がアントワープにいる時は結構家に遊びに行ってましたね。家も2時間とかでそんなに遠くなかったんで。だからみんながヨーロッパにいたり、A代表とかでもやってることは不思議な感じです。


三好康児(川崎フロンターレ所属時)写真:Getty Images

トップチームで実感したプロの壁

ー川崎でU-18に昇格したのがとても早かったですよね?

三好:中学3年生の時に、ユースで高校生と一緒にやらせてもらってました。兄貴がいたので年上の選手と一緒にやることが多かったんで、プロになるならできるだけ高いレベルでっていうのを常に思っていました。自分より上手い選手とできるのは常に楽しかったですし、プロになるっていう過程ではすごく大事だったと思います。

ーその後トップチームに昇格したものの、出場機会は限られていました。

三好:はい。J3(当時J3に参加していたJリーグのアンダー22選抜)があったんですけど、トップチームは途中から3~4試合(出場)とかでしたね。1年目は正直そんなにスタメンを取れたわけでもないですし、プロの壁というか厳しさっていうのはありました。やっぱり川崎は優勝争いチームでしたし、それこそA代表に入るような選手が多くいた中で戦うのは簡単ではなかったです。

ー川崎在籍時に学んだことはありますか?

三好:今でも技術的にもっと向上できるなというのは常に思っていますが、当時は風間(八宏)さんが監督をやっていて、中村憲剛さんはじめトップレベルの選手たちからポジションを奪って戦っていく中で、本当に(技術が)足りないなっていうのは常に学ばせてもらいました。ただ、自信をなくすことはなかったです。自分には自分なりの自信があったんで、そこの埋め合わせというか葛藤は常にしていました。

ーアドバイスを受けたことはありますか?

三好:色々ありますけど、メンタル的なところですかね。やっぱり試合に出れないとメンタルを維持するのも難しい。高校生までは試合に出られないことなんて1回もなかったのに、プロに上がって試合に出られないとコンディションもなかなか合わせづらい。

しかも「コンディションを合わせる」ということもそれまで意識してきてなかったので。常に試合をやってて勝手にコンディションが整うので。その難しさも改めて実感しました。常にプロとしての振る舞いというか「いろんな人が見ているんだぞ」というのは教えてもらいました。

ー腐ってしまいそうなこともありそうだったのですか?

三好:腐るっていうか反発するっていうか。「なんで使われねえんだ、俺」とか。腐るという表現になる可能性はありますけど、自分や板倉がそういう雰囲気でやっているとやっぱり先輩方は気づくじゃないですか。そうなるとメシ連れてってくれて励ましてくれたりとかはありましたよね。

三好康児(北海道コンサドーレ札幌所属時)写真:Getty Images

札幌でのミシャとの出会い

ー2018年に北海道コンサドーレ札幌に期限付き移籍されますが、このきっかけは?

三好:やっぱり出場機会が欲しかったので。川崎で3年目、僕が20歳のときに鬼木(達)さんが監督になって、なかなかまだ試合に絡めずでした。U-20のワールドカップに出て帰ってきたらチームではポジションがなくなってて(試合に出るのは)そんな簡単じゃなかったです。

でも、その年にチームは優勝したんです。このままではいけないなと思い、年間通して試合に出られるところが自分に必要だと思っていたちょうどその時に札幌からオファーをもらいました。ミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ)が監督になるっていうタイミングで声を掛けていただいて。ミシャも(僕を)欲しいっていう風に言ってくれました。実際に話を持ってきてくれたのは札幌の強化部の人でしたけど。

ーペトロヴィッチ監督は人格者としても知られていますが、彼から学んだことなどはありますか?

三好:やっぱり今も一貫してずっとやっている「ポリシーのあるサッカー」というか。練習中から、すごく緻密なポジション取りだったり、連携の部分の構成っていうのに、すごく感銘を受けました。

あとは外国人監督ならではというか、ミシャさんならではというか、選手との距離が近くてお父さんとかおじいちゃんみたいな感覚で常に見てくれている。特に試合に使ってくれる選手には手厚いコミュニケーションがあったなと思います。自分みたいなハタチの若造は日本だと若い選手として見られるじゃないですか?それをミシャさんは対等に見てくれました。

当時川崎の鬼木さんは小学校の時のコーチだったんで、それで難しい部分もありました。こっちはもうプロとしてやっているつもりでも、向こうからすると小学生の頃から知っているから、昔を知っている感覚もあるじゃないですか。一度育った川崎から出てみて自分が1人の選手としてどういうことができるのかっていうのを見るためには良いタイミングだったなと思います。

ミハイロ・ペトロヴィッチ監督 写真:Getty Images

ーペトロヴィッチ監督の指導を受けて「衝撃的だった」という選手が多いですが、彼の何がすごいと感じましたか?

三好:サッカーをすごく見ているし、自分たちのサッカーを主体に考える。相手が全く関係ないというわけじゃないですけど、相手は「ミシャさんのサッカーに対応しないと無理だぞ」というサッカーをする。絶対的主体が自分たちにあって、そこに対してや自分がやっているサッカーへの自信はすごいものを感じましたね。

ー札幌では26試合に出場。それ以前に比べて出場試合が増えましたね。

三好:途中、アンダー(年代別代表戦)などもあって(所属チームの)試合に出れない時期もあったので、初めて年間通して26試合に出ました。けど、アンダーがなければ30試合以上は出ていたから(試合数というよりは)「年間を通して戦えた」というところで自分にとってすごく自信になった1年でした。


三好康児(横浜F・マリノス所属時)写真:Getty Images

「ザ・ボス」ポステコグルー監督の魅力

ー札幌での活躍後、川崎には戻らず横浜F・マリノスに再び期限付き移籍されますがこの経緯は?

三好:そもそも札幌がレンタル(期限付き移籍)だったんで延長っていう可能性もあると思っていたんです。チームの方からは、レンタル延長だと札幌にとってなかなか未来がないので2年目以降も残りたいなら完全移籍という話もありました。でも川崎的には出すつもりはないということでレンタル延長はもう厳しいということになって。

川崎はその年(2018)も優勝したんで帰ってまた主力を張れるようなチームではないと思い、だったらもう1年自分を欲してくれるクラブがあったらと思っていたところで、ちょうどマリノスからオファーがありました。その時ポステコグルー監督だったんですが、また面白いサッカーやってるなと思いそこに惹かれました。

アンジェ・ポステコグルー監督 写真:Getty Images

ーポステコグルー監督の指導はどのようなものでしたか?

三好:本当に“ボス”って感じでしたね。僕は半年しかやっていないですけど、(ペトロヴィッチ監督とは)また違った絶対的自信を持っていて、やり方も徹底してより規律のある厳しい監督でした。

負けた試合後なんかは、ミーティングで本当にドヤされるくらいのピリッとした雰囲気を常に保っている監督だったんで。コーチ陣を含めて徹底した数値を出したり。スプリントの回数とかボックス内に侵入した回数とか、ポジション取りの部分も含めて本当に細かいところを(チェックして)。緻密なサッカーだなと思います。

ーポステコグルー監督のサッカーは楽しかったですか?

三好:楽しかったですよ。常にボールを握ろうとする主体性を持ったサッカーは自分も好きです。だから色んな考え方を持っている監督のもとでやれるっていうのはサッカー選手としてすごく嬉しかったですし(それまでと)違った攻撃的なサッカーというのを学べたなという風に思っています。


インタビュー前編では、三好自身にとって「基盤を構築した」というユース時代からプロデビューした川崎での挫折、そしてペトロヴィッチ監督やポステコグルー監督との出会いまでを振り返った。

後編では、ベルギーやイングランドへの海外挑戦と現在所属しているバーミンガムでの状況についてお届けする。

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