『オッペンハイマー』に現れたノーラン史上最大の“密室空間” 賛否を分けた演出を整理する

第96回アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞を含む最多7部門を受賞し、世界興行収入も10億ドルに迫る大ヒットとなったクリストファー・ノーラン監督の最新作『オッペンハイマー』が、紆余曲折を経て、3月29日にいよいよ日本で劇場公開された。本作は、第2次世界大戦中、史上初の原子爆弾の開発を主導したアメリカの理論物理学者J・ロバート・オッペンハイマーの半生を描いた伝記映画である。ノーランが第2次大戦を描くのは、1940年の「ダイナモ作戦」をモティーフとした戦争映画『ダンケルク』(2017年)以来だが、これまでSFやサスペンスを多く手掛けてきた彼にとって、初の伝記映画だ。

このレビューでは、本作について、(1)アカデミー賞レース、及び題材が持つ昨今の時流との関係、(2)ノーランの演出プランと原爆描写との関係、そして(3)過去のノーラン作品との関係という3つの側面から整理してみることにしたい。

■オスカーと相性のいいジャンル

蓋を開ければ、批評・賞レース・興行のすべてにおいて、近年では稀有の成功を収めた『オッペンハイマー』だが、振り返ってみると、ノーランら作り手側の意図はどうあれ、結果的に本作は、ハリウッドや現代映画界の趨勢を巧みに捉えたジャンルや題材だったといえる。

まず、本作はノーランにとっては、『インセプション』(2010年)で初めてノミネートされて以来、自身4度目にして悲願のアカデミー賞作品賞受賞作となったわけだが、もともと偉人の生涯を描く伝記映画というジャンルは、賞レースの選考に関わる北米のインテリやエスタブリッシュメントたちにとりわけ好評で、昔からオスカーに比較的ノミネートされやすいと言われてきた。かつてのハリウッドでは(現在でも?)、伝記映画も含む事実ものや歴史ドラマが知的で高級なものと評価され、相対的にサスペンスやSFといった娯楽ジャンルは通俗的で低級なものとみなされがちだった。現在では、ハリウッド史上最も偉大な監督とみなされているアルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークス、ラオール・ウォルシュなどの巨匠が一度もオスカーを受賞していないのも、それが理由である。また、『ジョーズ』(1975年)や『E.T.』(1982年)で何度もノミネートされながら受賞できなかったスティーヴン・スピルバーグが悲願のオスカー作品賞・監督賞を得たのも、やはり伝記映画の大作『シンドラーのリスト』(1993年)だったことも、(物語にユダヤ人が関係する点も含めて)今回のノーランの状況とよく似ている。

実際に、今回、本作が受賞した第96回アカデミー賞作品賞部門でも、他に、オッペンハイマーと同じユダヤ人で、やはりアメリカが誇る世界的作曲家レナード・バーンスタインとその妻を描いた『マエストロ:その音楽と愛と』(2023年)がノミネートされていた。さらに直近から数年遡っていっても、『エルヴィス』(2022年)、『ドリームプラン』(2022年)、『Mank/マンク』(2020年)、『アイリッシュマン』(2019年)、『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)、『バイス』(2019年)……と、アカデミー賞ではほぼ毎年、最低1作は必ず伝記映画がノミネートされてきているのだ。ただしそれでも、実際に受賞した例は、『ガンジー』(1983年)、『ビューティフル・マインド』(2002年)など数えるほどしかない。ただ、少なくとも優勝台への足掛かりを掴む確率を上げることはできるのだ。もっとも、ノーランがそのようなアカデミーへの迎合的で打算的な思惑だけで新作の題材を選んだというつもりは毛頭ないが、結果的に、本作が受賞に至ったのは、以上のような経緯もあるだろう。

■「マイノリティの顔を持つ国民的英雄」という多面的人物像

また、他ならぬその伝記の題材にオッペンハイマーという人物を取り上げたことも、昨今のハリウッドや現代社会の時流を巧みに汲み取っているように思われる。

前年のアカデミー賞作品賞を受賞した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2023年)がアジア人女性初の主演女優賞、さらにその前の『コーダ あいのうた』(2022年)が聾者男性初の助演男優賞を受賞したことにも端的に表れているように、ここ10数年は、社会的マイノリティへの多様性や寛容性がますます広く叫ばれるようになっていることは周知の事実。それでいうと、このオッペンハイマーという人物も、そうした現在の時代的要請に適うものになっている。

映画の中でも描かれていたように、オッペンハイマーは非常に多面的な経歴を持った、実に複雑な人物だった。もちろん彼は、原子爆弾の開発によってアメリカを勝利に導き、20世紀後半の世界史を劇的に変えた国民的な英雄として賞賛される人物である。ただ一方、当時のアメリカ国内ではマイノリティだったユダヤ人コミュニティ(オッペンハイマー家は、当時のアメリカ国内では特殊なユダヤ教分派だった「倫理文化協会」に属していた)に属し、また長じて危険分子だった共産党員とも交流し、それが元で、戦後は、かつて自らが主導した核開発に対する慎重論を提唱したこともあり、ソ連のスパイという濡れ衣を着せられて公職を追放され、FBIの監視下に晩年まで長く置かれることにもなった。以上のような彼の特異な経歴は、北米の観客たちの心情に強く訴えるアメリカの威信や栄光を体現すると同時に、昨今いたるところで考慮される多様性への目配せをも伺わせる両義性を持った、現代の伝記映画にうってつけのものだと言える。また、本作はある意味で「男性の脆弱さ」を描いた物語だと言えるが、これもいかにも現代的な要素だろう。思えば、今回、オッペンハイマーと対立するルイス・ストローズを演じたロバート・ダウニー・Jr.の当たり役となったマーベル映画(MCU)の「アイアンマン」もまた、中年男性のヴァルネラビリティを体現するキャラクターだった。『オッペンハイマー』の成功は、このような複数の要因が絡んだものだといってよい。

■内面の物語としての原爆描写

ところで、『オッペンハイマー』は、日本での劇場公開が大幅に遅れたことに示されるように、広島・長崎への原爆投下というきわめてセンシティヴな史実が絡んだ、日本ではいわくつきの作品でもある。そして、原爆の破壊力や広島・長崎の甚大な被害の実態が直接的に描かれていないことで(爆心地の記録映像を映したスクリーンをオッペンハイマーが鑑賞するシーンは出てくるが、スクリーンの映像は映画には写らない)、全米公開の当初からーー例の「バーベンハイマー」という社会現象とも相俟ってーー賛否両論を呼んできた。

そして、この本作が絡む倫理的側面については、今回のノーランの採用した固有の演出プランも絡んでくる。『オッペンハイマー』は、物語の全編が、主人公オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の半生を描いた戦前からのシーンと、ストローズを中心とする戦後の公聴会のシーンが交互に挿入され展開する構成を持つ。このうち、前者はカラー、後者はモノクロで描かれており、この趣向は誰が見てもノーラン自身の出世作『メメント』(2001年)を彷彿とさせるだろう。

重要なのは、ノーランがこのうちのオッペンハイマーのシーンを、あくまでも彼の主観的で内省的な視点からの物語として描こうとしていることだ。プレスのプロダクション・ノートで彼は次のように語っている。

「映画は、物語を語るメディアだから、観客を主観的な経験の中に引きずり込み、登場人物が判断する出来事に、自分だったらどう判断するか考えさせるのに適している。[…]様々な視点から私たちはオッペンハイマーの精神の中に潜り込み、観客を感情の旅に連れ込もうと試みた。それがこの映画の賭けだった。とてつもなく破壊的な一連の出来事に巻き込まれた、しかし正しいと信じた理由のためにそれをなした一人の人物の物語を語ること、しかもそれを彼の視点から語ること」(試写で配布されたプレス、9頁を参照)

実際、ノーランは映画の脚本としてはきわめて異例なことに、このオッペンハイマーの一連のシーンを、一人称で書いたという。「我々はオッペンハイマーの肩越しにものを見、彼の頭の中にいて、どこに行くにも彼と一緒なんだ」。

こうした演出プランに沿って、『オッペンハイマー』では原爆の脅威や惨禍は、あくまでもオッペンハイマーの「内面」との関係において寓意的に描かれる箇所が目につく。もちろん、トリニティ実験のシーンなどは原爆の凄まじい破壊力を客観的状況として描いていたりもする。ただ、例えば、広島・長崎への原爆投下が成功した後、ロスアラモスでオッペンハイマーが人々に熱狂的に祝福されるシーンでは、原爆による惨禍は、彼の脳裏の主観的なフラッシュバック(心象イメージ)として描かれる。そして、それは物語の当初から繰り返し挿入される、若き物理学者オッペンハイマーの頭脳に浮かぶ抽象的な原子のイメージの延長上にある。したがって、ノーランからすれば、インタビューなどでも答えているように、本作で広島・長崎の被害が直接的に描かれない理由は、カラーのシーンでもモノクロのシーンでも、あくまでも主人公や人々が、その状況を直接的に目撃していないからだ、ということになるだろう。こうしたノーランの演出上の選択に対して、倫理上の問題を指摘する視点は、確かにありうるだろうと思う。

ただ、あえて1点付け加えておけば、以上の、状況をあくまでもオッペンハイマーの主観的で内省的な視点から物語るという作劇的な選択は、実は現実のオッペンハイマーの固有のパーソナリティを踏まえているとも言えるのだ。というのも、現実のオッペンハイマーもまた、その青春期から精神的な不調に悩まされてきた、内省的な人物だったからだ。本作の原案本となっているカイ・バード&マーティン・J・シャーウィンのノンフィクション『オッペンハイマー』によると、オッペンハイマーはケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所に留学した20代初め頃から重度の鬱状態に陥る。そして、彼の両親は、次のように回顧している。

「長い交渉の末、ロバートを保護観察に付すこと、ロンドンのハーレー街で開業している著名な精神科医のところへ通って、定期的に検査を受けることで話がついた」。そして、「フロイト派の精神分析医は精神分裂病(統合失調症に伴う徴候に付けられた古い病名)と診断した。[…]そして何年も後になって、オッペンハイマーははっきり思い出すと語った。「わたしは、まさに自殺寸前だった。これは慢性的な願望だった」」(『オッペンハイマー』上巻[異才]、河邉俊彦訳、ハヤカワノンフィクション文庫、2024年、127~129頁)。

ここで記されているような、若きオッペンハイマーの精神的不調は、ケンブリッジの主任指導教官パトリック・ブラケットに毒を注射したリンゴを机の上に置き食べさせようとした「毒リンゴ事件」のエピソードとして劇中でも登場する(ちなみに、映画では毒リンゴを口にしようとするのはブラケットではなく、ケネス・ブラナー演じるニールス・ボーアに変更されている)。また、ノーラン作品ではきわめて珍しく、公聴会で尋問されている最中のオッペンハイマーが、彼のその時の内面を視覚化したように、突然、全裸の状態に変わり、あるいは愛人のジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)が彼にまたがってセックスするといった表現が登場する。また、映画では、オッペンハイマーが美術館でピカソのキュビズムの抽象画を鑑賞するシーンが出てくるが、オッペンハイマーが卓抜な科学者であった一方、ドストエフスキーを読み、詩を書き、『資本論』やスピノザを読破するような、いわゆる「文系」的な感性に恵まれた人物であったのも史実の通りである(そもそもオッペンハイマーの母も画家だった)。すなわち、『オッペンハイマー』においてノーランが採った広島・長崎の原爆被害の直接的描写を回避し、原爆描写をあくまでもオッペンハイマーの内面の物語として回収する演出プランには、さしあたり実際の史実が根拠を与えていると見ることができる。もちろん、そのことを踏まえた上で、本作の倫理性を批判する立場はなおありうるが、本作の理解のために押さえておく論点ではあるだろう。

■ノーラン的な「密室」「箱」のイメージ

それでは最後に、作家論的な切り口から、過去のノーラン作品との繋がりについても紹介しておこう。

『ダンケルク』、『メメント』、そして『インセプション』など、すでにここまでにも、『オッペンハイマー』には過去のいくつものノーラン作品との繋がりが見え隠れしている。他にも象徴的なモティーフを探すとすれば、「密室」や「箱」のイメージが当てはまるだろう。

拙著『新映画論 ポストシネマ』(ゲンロン叢書)でもすでに指摘したことがあるが、初期の習作的短編『Doodlebug(原題)』(1997年)や長編デビュー作『フォロウィング』(2001年)から前作『TENET テネット』(2020年)まで、ノーランは「密室」という舞台装置や「箱」というガジェットをつねに作中に好んで導入してきた。それは『プレステージ』(2007年)の奇術師の使う箱や『TENET テネット』の時間逆行装置、『ダンケルク』で兵士たちが潜り込む浜辺の船などを想起すれば一目瞭然だろう。同様のテマティックなイメージは、もちろん『オッペンハイマー』でもいたるところに認められる。「箱」のイメージは、マンハッタン計画のトリニティ実験で原爆が詰められる木箱や、タトロックが湯船に切った手首を入れて自死を図る浴槽に見出せる。また、「密室」のイメージであれば、文字通り、オッペンハイマーが尋問のために長時間閉じ込められる公聴会の室内がすぐに思い浮かぶだろう。さらになんといっても、原爆開発という超極秘任務のために、外部世界との接触を断ち、ニューメキシコ州北部の広大な土地に研究所を含む一個の町を作ってしまったマンハッタン計画の「ロスアラモス」こそ、ノーラン映画最高にして最大の「密室空間」ではないだろうか。この点において、本作は紛れもなく、ノーラン作品の真髄が込められているとも言えるのだ。

ついに全貌が公開された2020年代最大の問題作にして傑作を、ぜひ劇場のスクリーンで堪能してほしい。
(文=渡邉大輔)

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