林家木久扇が語る「55年間出演し続けた“番組”からの卒業」影響を受けた二人のアウトロー

林家木久扇

漫画家、画家、ラーメン店経営など多才な落語家・林家木久扇。1969年から半世紀以上レギュラーを務めた『笑点』(日本テレビ系)を2024年3月31日の放送をもって卒業する。
今年1月には「THE CHANGE」に登場。番組の秘話や、生涯現役の秘訣を語った木久扇師匠の完全版をお届けする(文中敬称略)。

木久扇は1937年(昭和12年)10月19日、東京・日本橋で生まれた。

「もう、師匠の(林家)彦六が亡くなったのと同じ年です。落語協会でも最高齢になっちゃいました。
先日、ある落語会に呼ばれて、主催者に“お客さんは、お年寄りばかり”と言われたんですよ。でもね、高座に上がってみたら、演者の僕のほうが年上でした(笑)」

ーー「自分より長くテレビに出続けているのは、黒柳徹子さんだけ」と語る木久扇が、番組の卒業を決断したのは、なぜか?

「『笑点』に出て54年目ですが、これだけ長く続けていると、司会者がみんな亡くなるんです。僕を番組に推薦してくれた(立川)談志さんをはじめ、前田武彦さん、三波伸介さん、(三遊亭)円楽さん、(桂)歌丸さん……。

どの方との別れもつらかったです。受け入れるのは容易じゃなかった。メンバーだった六代目の円楽さんも亡くなりましたし、仲間が減っていく経験をして、“元気な姿のままで卒業したい”と思いました。

ーーだが、理由は、それだけではなかった。

「ずっとボケをやってきて、いつ、どこに行っても面白い人だと思われるので、ちゃんと、それに応えて演じてきた。ただ、それだけが僕ではありません。だから、ちょっと休ませてもらいたい気持ちもあったんです」

ーーすでに、お気づきかもしれない。素顔の木久扇は、テレビでの“おバカキャラ”とは違い、意外なほど落ち着いた人物だ。ちなみに、気になる後任人事については、ノータッチだとか。

「それはテレビ局が決めることです。僕が具体的な名前を挙げると、それで確定みたいに伝えられますし、まして(息子である)木久蔵の名前なんて出したら、政治力を働かせたみたいに思われてしまう。それが嫌なので、何も言わないと決めています」

ーー近年、新メンバーの加入が相次いだが、特にスタッフから相談はなかったという。

「でも、いい人選だったと思いますよ。(桂)宮治さんは明るくて、ふてぶてしくて、ずっと前からいたような顔をしている。それに対して(春風亭)一之輔さんは、冷たい理性のようなものがあって、番組の空気を変えましたね」

司会者に任された場を温める役割

ーー改めて、この54年間を振り返ると、長く出演し続けてきたからこその苦労もあったようだ。

「司会者が替わると、大喜利のリズムも変わるんです。たとえば、円楽さんは何か答えても、あまり感想を言わなかった。だから、限られた放送時間で、僕らは何度も答えられたんですよ。

反対に、(春風亭)昇太さんが何か言うと、(林家)たい平さんに突っ込まれるでしょ。すると、また、言い返す。放送ではカットしていますけど、収録では、もっと長いやりとりがあるんです」

ーーつまり、司会者が替わるたびに、そのスタイルに合わせていったという。円楽の後任だった歌丸も、また、違うタイプだった。

「神経質というか、繊細な方でしたね。誰に、何回指すかを、全部計算していたんですから。それから、場内がシーンとなると、必ず僕を指すんですよ(笑)」

ーー場を温める役割を、木久扇に任せていたのだ。

「そんなタイミングで打席に立ち、毎回ヒットを打つのは大変でした。だから、ときには“いやん、ばか~ん”のようなギャグや、モノマネで笑いを取っていたんです。大喜利でモノマネをやったのは、実は僕が最初なんですよ」

ーー状況を大局的に見て語る木久扇は、長い間、出演を続けられた理由を、こう捉えている。

「スタッフと、うまくやってきたことが大きいと思います。ふだんの僕は冷静ですから、扱いやすかったんじゃないですかね。出演者とスタッフの橋渡し役が求められていたんでしょう」

ーーむろん、それだけではなく、おなじみのおバカキャラが重宝されたことも、間違いないだろう。

「レギュラー入りするとき、談志さんから“おまえは与太郎をやれ”と役割を指示されたんです。僕はシメシメと思いました。だって、与太郎なら答えを間違えても許されるでしょ(笑)。僕の失敗は、笑いが取れる。

それに、分かりやすく言うと、このキャラクターが一番、儲かるんです。舞台に登場しただけで笑いが起きますから、いろいろな仕事に呼ばれやすいんです」

ーー与太郎を演じながら、大喜利メンバーとして、常に大切にしてきたことがある。

「もともと漫画家を目指して、清水崑さんに弟子入りしていましたから。一コマ漫画のふきだしをイメージして、短くて、分かりやすくて、面白いセリフを口にしました。

小噺にしても“犬がひなたぼっこしてるよ”“ホットドッグだね”とか、“雨が漏りますね”“や~ね~”とかね(笑)」

談志がマイク一本で謎かけ!

「僕は古典落語をじっくり語るタイプではなく、師匠の(林家)彦六を語った『彦六伝』や『昭和芸能史』といった新作をやってきました。それは、落語会の呼び込み役を意識してのことです。パチンコ店がオープンするときに、前に立って叫んでいるサンドウィッチマンみたいなものですよ」

ーー師匠である彦六はもちろん、与太郎役を指名した談志も大恩人だ。

「番組に出る前、まだ談志さんにお弟子さんがいなかった頃、カバン持ちをやっていたんです。随分、影響を受けましたよ。
落語家がキャバレーを回るようになったのは、談志さんからです。マイク一本で謎かけをバンバンやるスタイルを確立しました。談志さんがすごかったのは、店の常連客の名前を事前に調べて、謎かけのお題をもらうときに、“○○さん、お題をください”って誘うんですよ。呼ばれた相手は気分がいいですよね」

ーー談志が1971年に参院選に出馬したときも、選挙を手伝った。

「街頭でマイクを持つと、近くにある店の看板を見て“○○商店の皆さん、お元気ですか?”と声をかけるんです。すると、店の人は必ず顔を出して、手を振ってくれる。なるほど、そうかって、人の心のつかみ方を覚えましたね」

ーー落語界のアウトローである談志の影響を受けた木久扇だが、漫才界のアウトローとも親しかった。

「横山やすしさんは、大阪から東京に出て来ても友達がいなかったので、決まって、僕が呼び出されるんです。“どっか、連れてけや”って。

やすしさんは、なぜか、いつもサイフを持たないので、僕が払わされました。だから、僕の落語のごひいきさんのママがいる、安く飲ませてくれる銀座のクラブに連れて行きましたね」

戦争も病気も乗り越え、今も現役バリバリ

ーー2人は、いつも閉店時間まで飲んでいたという。

「『蛍の光』が流れて、2人とも店を出ますよね。そのビルは上から下まで全部、クラブですから、閉店時間にはエレベーターに、なかなか乗れないんです。上の階のお客で満員ですから。

すると、やすしさんはイライラして、“俺より稼いでない奴らのくせに”って、エレベーターの乗客を蹴っ飛ばすんでよ。いつも僕が謝っていました(笑)」

ーー損な役回りだったが、懐の深い木久扇は、やすしとウマが合った。そんな木久扇の人生観に大きく影響を与えたのが、幼い日の戦争体験である。

「小学校1年の頃、東京大空襲を経験しています。あの夜は、外がずっと明るかったんです。爆弾が炸裂する音も近くで聞きました。だから、常に背中に“死”を背負ってきました。
僕は、がんを2回やっているけど、それは個人の体験です。戦争のときの、世の中全体を覆った恐怖とは比べものになりませんね」

ーー8歳で死の一歩手前まで行った木久扇だが、幸い、がんも克服し、今も現役バリバリだ。

「今は“ここまで生きたか”という思いですね。すごく得をしました。長く元気に生きていれば、その分、いいことがあるんです。
このインタビューの後も、横浜まで一席落語をやりに行きますが、仕事をすれば入金もある。僕が、なにより好きな言葉は“入金”ですから(笑)」

ーー入金好きで、精力的に活動する木久扇は、体調管理にも余念がない。

「毎日、8時間は寝ています。それから、毎日40分くらいの昼寝をするんです。運動は朝食前にラジオ体操をやります。それに、ケガをした足に筋肉をつけなきゃいけないので、足の指の上下運動と、トレーニング効果を高める加圧ベルトを巻いて足を上げる運動を、40分ずつ4コースやります。
5年前に禁酒しましたから、飲むのは、いつも白湯か、水。白湯は心が落ち着きますね。炭酸飲料は口に入れません」

東南アジアにアニメを輸出!?

ーー『笑点』卒業後も、落語家としての活動は続ける。

「これで全部、引退だと思っている方もいるんだけど、ちゃんと寄席にも出ますし、呼ばれれば、どこでも仕事をやりますよ」

ーーテレビにも出続けます、と言い切った。

「僕は日本テレビ専属のようなイメージを持たれがちで、他局に出ても、“日テレの黄色い人が出ている”なんて思われていたから、今後は他局に呼ばれる機会が増えるんじゃないですか。もちろん、『笑点』にもお正月のスペシャルなんかで呼ばれれば、喜んで出ますよ」

ーーまた、すでに70冊を超える著書を出しているが、執筆活動も続けていく。

「本は年に2冊のペースで出してきました。最新刊は『バカのすすめ』(ダイヤモンド社)という、バカになればなるほど、人は愛されるという内容です。

その前は大好きなチャンバラ映画の本を出しましたし、ラーメン、心霊など、いろいろなテーマの本を書いてきました」

ーー好奇心旺盛で、多芸多才の木久扇が、今、最も関心があることは、なんだろうか。

「ジョークだと思われるかもしれませんが、宇宙人です。宇宙に、こんなに星があるのに、生命体が、この地球だけにいるってことはないんです。

僕は超常現象も好きなんですよ。人生に考えられないようなことが起こるっていうのがね。だからこそ、宇宙にも興味がある」

ーー入金にこだわる木久扇だからこそ、関連ビジネスも計画中だ。

「『木久扇のスター・ウォーズ』といって、落語の長屋の連中がロケットで宇宙に行って、八っつぁん、熊さん、ご隠居さんが、宇宙人と面白いつきあいをする。その絵を僕が描いて、アニメにしたいんです。

最初は5分ぐらいの短編にして、評判がよければ、NHKのEテレでやってもらう。あわよくば東南アジアあたりに輸出してね(笑)」

漫画家や画家としても活躍し、多彩な才能を併せ持つ木久扇師匠。テレビの印象とは違い穏やかに語るその姿からは『笑点』を卒業後も幅広い分野での活躍が期待できそうだ。

林家 木久扇(はやしや・きくおう)
1937年10月19日 生まれ。東京都出身。落語家、漫画家、画家。高校卒業後、社会人を経て漫画家を目指し、58年にはプロデビュー。その後、落語家へ転身。林家木久蔵(前名)として二ツ目、真打ち昇進を果たす。69年から『笑点』(日本テレビ系)のレギュラーメンバーとして活躍し、人気落語家となる。2007年に林家木久扇襲名。出囃子は「宮さん宮さん」、定紋は林家彦六一門の定紋である「中陰光琳蔦」。落語で間の抜けたキャラクターを指す「与太郎」の役割で、老若男女を笑わせ続けてきたが、2023年の『24時間テレビ』内の「笑点チャリティー大喜利」において、2024年3月をもって『笑点』を卒業(勇退)することを発表。

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