『オッペンハイマー』に対する日本の観客の向き合い方を考える 映画の枠を超えた“警鐘”に

多くの映像作家とは異なるスケール、アプローチで、観客に新たな感覚を呼び覚まし、従来の映画の枠をはみ出すような作品を撮り続けてきたクリストファー・ノーラン監督。『オッペンハイマー』は、そんなノーラン監督が初のアカデミー賞受賞(作品賞、監督賞を含む7部門)を果たした一作となった。

しかし、「原爆の父」と呼ばれる人物の伝記作品である『オッペンハイマー』は、そんな受賞の事実すら霞ませるほどに、やはり規格外の内容によって、観客の心を激しく動揺させるものとなった。とくに、唯一の核兵器の被ばく国である日本の観客からすれば、その衝撃はなおさらである。

ここでは、巨匠クリストファー・ノーラン監督が本作で踏み出した、真におそろしい境地、あまりにも重大といえるテーマの正体を考えながら、この問題作に対する日本の観客の向き合い方の一つを考えていきたい。

本作『オッペンハイマー』の原作は、ピューリッツァー賞を受賞した、カイ・バード著『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』。理論物理学者ロバート・オッペンハイマーが、原子爆弾の開発と製造を目指す「マンハッタン計画」で、原爆開発プロジェクトの委員長として科学者たちを主導していく経緯や、実験が成功して日本に原爆が投下された後、機密漏洩の疑いをかけられることになった事情が書かれている。

映画が重要な要素として描くのは、そんなオッペンハイマーの人間性である。博士号を取得しようとしていた時代のオッペンハイマーには、私怨のある教授を毒殺しようと、有毒な物質をリンゴに染み込ませたという、常軌を逸した逸話が一説として残っているが、本作はそのエピソードを採用し、結果を深く考えずに行動してしまう主人公の性質を強調している。そんな神経質で想像力に欠けた内面を、抑えた仕草で見事に演じているのは、本作でアカデミー賞主演男優賞を手にしたキリアン・マーフィーだ。

それ以外にも、妻キティ(エミリー・ブラント)や恋人ジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)との関係、周囲の研究者たちや、科学者として尊敬するアインシュタイン(トム・コンティ)やニールス・ボーア(ケネス・ブラナー)、そして、ともにマンハッタン計画を進めていった軍人レズリー・グローヴス(マット・デイモン)や、ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)などとのかかわり合いを通して、オッペンハイマーが他者を軽んじた態度をとることで不快感や負担を与えてしまうという描写も、本作は用意している。

これらのエピソードは、複数の時間の流れとしてセパレートされた上で、それぞれが断片的に切断され、交互に描かれていく。こういった時間の見せ方というのは、近年アメリカの映画やドラマでは珍しくなくなってきたが、シーン同士の意味合いがそれぞれに関連性を持ちながら巧妙に配置されることで、それぞれの印象を強めているというのは、さすが『メメント』(2000年)をはじめ、時間の流れを操ることで自身の表現を確立させていった、ノーラン監督というところだ。

そして、忙しなく奏でられ続けるストリングスによって切迫感を煽るルドウィグ・ゴランソンの音楽とともに、それらシーンが流れるように見せていく編集は前衛的であり、大勢の被害者を生み出し人類を脅かす、歴史の転換点となる運命の爆破実験に向けて、さまざまなエモーションを揺り動かしていくよう加速していく。そんな圧巻の演出は、オッペンハイマーが科学の発展と倫理の逸脱のなかでがむしゃらに突き進んでいった過程と、見事なシンクロを見せている。

オッペンハイマーは、自身の振る舞いによって、必然的に訪れてしまう悲惨な事態に後悔したり、窮地に立たされることになるが、そういった人生が行き着いてしまった最大の結果が、広島、長崎への原爆投下による、一般市民の大量虐殺ということになるはずだ。

本作では、その後に起きる理不尽な機密漏洩の疑いによる追及を受けて責め苛まれるオッペンハイマーの心理を、原爆を生み出してしまったことや、それが実際に民間人への大量虐殺に使われたことについて、自身にどれだけの責任があったのかを考える機会として解釈し、せめてもの贖罪の一端として受け入れているように描かれる。もちろん、実際の被害を受けた人々からすれば、そんなことが贖罪になるのかと感じる観客がいるのも、もっともなことだろう。

一方、オッペンハイマーが原爆の開発に臨んだ理由には、当時アメリカにとって最大の脅威だった、ナチスドイツとの核兵器開発競争があったと考えていたことも事実だ。実際にはナチスが核兵器開発の完成に向かっていたことは誇張された情報であったとされているが、敵国に大量破壊兵器を使われる前にできる限りのことをするというのは、一人のアメリカ国民として理解できないことではない。それが、彼自身想定していなかった状況で使用されてしまったのも事実なのではないか。

また、沖縄や硫黄島などでの戦闘によってアメリカ軍兵士に数万の死者が出ている事実や、日本では一般市民までもが戦闘の意志を示すよう統制されていることから、日本に大規模な爆撃を加えることになった経緯は、当時のアメリカ政府、軍が正当な行動だと考えていたことも想像できる。

それでも本作は、日本の一般市民が犠牲になる結果を生む、オッペンハイマーも参加した「目標検討委員会」でのシーンを通し、その暴力性の凄まじさや想像力の欠如をつまびらかにしている。広島、長崎におこなわれた、人類史に残る戦争犯罪の一つが、大きな葛藤もなく決められてしまった描写は、とくに日本の観客にとって衝撃的なものとして映るだろう。

しかし、そんな他者、他国への冷酷な見方は、当時の日本軍もまた同様であったのも事実だ。現在も日本国内にいると、第二次世界大戦で被害を受けたことについては多くの特集が組まれたり、作品がつくられているのを目にするが、逆にアジア諸国への加害行為、戦争犯罪については、それほどには語られていないのが現実なのだ。

とはいえ、一般市民が暮らす市街地に原爆を投下したことは、紛れもなく重大な戦争犯罪であることは疑いようがない。オッペンハイマーは、その点において、「自分の手が血で汚れているように感じる」と後悔の念を抱くことになる。そしてそんな彼に対して、広島、長崎への投下を決定したトルーマン大統領(ゲイリー・オールドマンが特殊メイクで演じている)は、強い怒りを見せる。

アメリカ国民、兵士の安全のためとはいえ、殺戮に手を染める決定者となったトルーマンにとってみれば、製造に尽力したオッペンハイマーが懺悔する姿を見せられることは、きわめて不快なものでしかなかったというのが正直なところだろう。劇中でオッペンハイマーは原爆投下のすぐ後にスピーチをして喝采を浴びるが、そのような勢いを保ち、自身の思想を固めなければ、精神的に追いつめられていくことは避けられないだろう。

こういった一連のシーンでは、日本人の観客にとってショックな描写が数多く見られ、鑑賞すること自体に拒否感をおぼえてしまうのも無理はない。だが一方で、加害者の側の論理、現在にまで続く歴史認識を理解することも、ある程度は必要なことではないのか。なぜなら、このようなアメリカにおける自国中心主義だったり、加害を正当化するような考え方は、戦時や現在までに至る日本にも当てはめられる部分があるからだ。オッペンハイマーの罪悪感も、トルーマンの開き直りも、日本の観客にとってかかわりのないものだとはいえないはずである。

このような罪に対して、一度は原爆の開発を求める書簡に署名をしたアインシュタインは、自身の誤りを認め、学問や技術を安易に殺戮兵器に利用する姿勢について苦言を呈する立場になっていく。著書『晩年に想う』のなかで彼は、「究極的な目標そのもの、およびそれに到達しようとする憧れは、他の源泉から生まれねば」ならない、「真理の知識そのものへ向かう熱意の正当さ、およびその価値をさえ証明することができ」ないとして、科学者の拓く道は優れた思想の統制のもとになければならないと主張するに至ったのだ。

本作におけるオッペンハイマーとアインシュタインの邂逅は、そういった暴走した科学が陥る恐ろしい落とし穴の存在と、それを未然に防ごうとする哲学を示していることになる。オッペンハイマーがそこで感じるのは、自分自身がヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節にある、「世界の破壊者(デストロイヤー・オブ・ワールズ)」になってしまうことへの不安である。

当初、原爆は一度爆発を起こすと、大気に誘爆し、地球上の全てが炎に包まれる可能性が危惧されていた。そうなればオッペンハイマーは、すぐにでも「世界の破壊者」になっていたはずだ。その不安は実験の成功によって回避されることになるが、ラストシーンによって、それはある意味当たっていたことが暗示される。

劇中の原爆開発のなかで議論されていた、より威力のある水爆は、その後、実際に開発、実験され、アメリカとロシア(当時のソビエト連邦)は核開発競争により数千発の核ミサイルを配備することになった。現在、世界各国の核兵器保有数は一万発を優に超え、これらは世界を破壊し尽くすには、十分過ぎる数である。一度核ミサイルがどちらかに発射されてしまえば、報復、応酬によって無数のミサイルが飛び交うことになることが予想される。その結果は、大気が核爆発を起こす事態と、結局は同じものなのではないか。

そのような常軌を逸した軍拡の恐怖と、その緊張が生み出した「冷戦」は長く続くこととなった。核兵器の使用や軍による開発競争に責任を感じた科学者たちは議論を重ね、物理学者ハイマン・ゴールドスミスは「世界の終末時計」という、核兵器の危険性をうったえる概念を広く世界に知らしめようとした。

実際に現在、「冷戦」の緊張が再び現実のものとなり、ロシアはウクライナ侵攻における各国の反発的な動きに対し、核ミサイル発射をちらつかせ、脅迫をおこなっている。世界の終末は、冗談でも誇張でもなく、われわれの生きている内に訪れてしまう可能性があるのだ。その恐ろしい現実のなかに、映画『オッペンハイマー』は放り出されることになったのだ。核兵器の不安と製造の後悔を描いた本作は、まさに映画の枠を超えた、一つの象徴、警鐘として機能することになるはずである。

フランスの詩人、ポール・ヴァレリーは、「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きで未来へ進んでいく」と書いている。アインシュタインやオッペンハイマーがそうであったように、人は未来に何が起きるのかを見通しながら行動することはできない。しかし過去に何が起こったか、当時の人々がどのような失敗をして後悔するに至ったのかを知ることで、後の危険を予測することは可能なのだ。だからこそ、この映画の理解が、未来の惨事を避ける一助として機能してくれればと、願わずにはおれない。

(文=小野寺系(k.onodera))

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