診断が出ても治療法がない希少難病の長男。「少しでも生きやすい社会を」と考え、飲食業をやめ福祉の世界に飛び込んだ父の決意【ポトキ・ラプスキー症候群・体験談】

たいちくんがつかまり立ちできるようになったころ。家族でお散歩に。

東京都に住む南里(なんり)健太さん(42歳)と妻(41歳)の長男、たいちくん(6歳・年長)は、4歳半のころ、希少疾患である「ポトキ・ラプスキー症候群」と診断されました。当時たいちくんを入れて、日本国内の患者は8人という難病です。現在は12人と報告されています。
健太さんはこの病気の患者家族会を設立し、さらにはたいちくんの子育てをきっかけに児童発達支援の事業所を開くことを決意します。
その経緯について健太さんに聞きました。全2回のインタビューの2回目です。

1歳になっても歩かない、しゃべらない息子。原因がわからず不安で孤独な日々…。4歳半で国内に数名しかいないポトキ・ラプスキー症候群と判明するまで【体験談】

診断を受けて、ポトキ・ラプスキー症候群の家族会を設立。心の支えに

写真はたいちくん3歳8カ月のころ。たいちくんが1人で歩けるようになったのは4歳のころでした。

生後まもなくから、たいちくんの発達の遅れが気になっていた南里さん夫婦。たいちくんが1歳半のころから療育を受け始めますが、障害についてなかなか診断がつかない状況でした。たいちくんが4歳を過ぎたころ、やっとマイクロアレイという遺伝子検査を受けられることになり、4歳半のときに希少難病である「ポトキ・ラプスキー症候群」と診断されます。そして、医師からは「まだ治療法がわからない病気」だと告げられました。

――病名がわかったときのことを教えてください。

南里さん(以下敬称略) ずっと知りたかった病名がやっとわかったけれど、「治療法がない」と言われてしまい、苦しい、悔しい思いでいっぱいでした。今の医学でできることがないとしても、僕はどうしてもあきらめたくありませんでした。

診断を受けたとき、国立成育医療センターの担当の医師から「この病気について書かれた論文がこちらです」と書類を渡されたんです。そこで、その論文を書いた医師にメールを送ってみようと考えました。妻は「返事なんか来ないんじゃない?」と驚いていましたが、しばらくして、その医師から返信が来て、より詳しい医師を紹介してもらえることになりました。

その医師に会って話をしていたら、「今の医学では特効薬はないしデータもないから、成長については様子を見ていくしかないけれど、患者家族会を作ってみてはどうか」と、すすめられました。希少難病が指定難病に登録されると、18歳以下の医療費助成が受けられるのですが、家族会は指定難病の登録に役立つから、ということが理由でした。それだけではなく、親同士の悩みを話せる場があること、情報交換できる人がいることは心のケアにもつながるから、と教えてくださったんです。

――家族会はどのように作ったのでしょうか?

南里 その医師が全国各地の患者さんの連絡先を調べ、メーリングリストを作ってくれました。当時はコロナ禍だったこともあり、つながったメンバー同士で、オンラインで話してみましょう、というところから始まりました。
そして、2022年12月に家族会を設立しました。LINEグループを作り、親同士で今現在も活発にやり取りしています。

――同じ病気を持つ親同士のつながりができて、どう感じましたか?

南里 仲間がいるという心強さもあるし、心がほっとやすらぐ感じがします。これまでは息子の発達状態のことを相談できる相手がほとんどいませんでした。家族会には、3歳くらいから高校生くらいまでの子どもがいる保護者が参加しています。家族会のメンバー同士は、気持ちをわかってくれるし、生活や進学のこまかい気がかりについて気軽に相談できることが、お互いの心の支えになっていると感じています。

――どんなことを相談しますか?

南里 週に1回、メンバーがそれぞれ気になるテーマについて、LINEで相談したり情報交換をしています。たとえば、療育をどうやって選んだか、言葉の悩みや学習の悩みのこと、睡眠障害のことや、トイレトレーニングのこと、歯医者さんが嫌いな子が多いのでむし歯の治療のことなど。ほかには、じっとしていられない子が多いから髪を切るのをどうしているかとか、子どもの小食や偏食の悩みについては「ふりかけタイプの子ども用栄養補助食品がいいよ」という情報を教え合ったり。

実際の生活の悩みについては、医師よりも同じ病気の子どもを持つ保護者のほうが幅広い情報を持っていることも多いと感じます。

たいちくんの難病をきっかけに、社会の中で支援がたりない部分に気づく

5歳のころのたいちくん。ホースセラピーを受けに行ったときの様子。

――最近のたいちくんの成長について教えてください。

南里 たいちは、ちょっとずつではあるけれど、できることは増えています。言葉は話しませんが、こちらの言うこともだいぶ理解してくれるようになりました。 最近は、うんちをしたいときは、自分でトイレの前まで行って僕のほうを見るんです。それで「トイレに行くんだね」とわかり、手助けします。そんなふうに、たいちとわかりあえることはとてもうれしいです。

現在は保育園年長で、4月から特別支援学校に入学する予定です。

――健太さんはたいちくんの子育てをきっかけに、2023年8月、都内に児童発達支援の事業所をオープンしたそうです。

南里 妻は2年ほど育休を取ってたいちの育児をしていましたが、育休が終わってからは、たいちは保育園で加配の先生をつけてもらって通園していました。同時に週2回は療育にも通っていました。当時僕は飲食業をしていたため、コロナ禍で休業となり、療育の様子を一緒に見る機会が増えたんです。それで、福祉の仕事に興味を持ち始めました。

興味を持ち始めてはいたものの、実際に事業所をオープンするきっかけになったのは、たいちが年中のころに進路について調べたときの経験が大きいです。学校探しと同時に、障害のある子どもが放課後に通う「放課後等デイサービス」を知りました。調べてみると、入学前から慣らし保育に通う人も多いようなので、自宅のある区の放課後等デイサービス事業所に問い合わせました。
30カ所ほど電話をしましたが、どこもいっぱいで見学さえもさせてもらえないような状況でした。でも妻も仕事をしていたので、なんとか放課後の預け先を探さなければ、どちらかが仕事をやめなくてはならなくなってしまいます。

そこで、自分がたいちの居場所を作ればいいのではないか、と考えるようになりました。30カ所も断られるのだから、僕たち家族以外にも困っている人、必要としている人がいるのではないかとも考えました。
そのころにたいちの診断名がわかって、この先治療法がない中でこの病気とつき合っていく人生はどのようなものになるのか、と考えることも増えました。
飲食業を続けていれば、たいちの未来のために多少のお金は残るかもしれません。でも、親の僕が福祉の仕事に携われば、たいちの居場所もできるし、医療従事者、療育の専門家とのつながりもできます。たいちにとって、環境と人のつながりを残してあげたいと考えたんです。

――未経験からの児童発達支援事業は大変だったのではないですか?

南里 開業について調べている期間に、僕のように障害のある子どものお父さんが立ち上げた、埼玉県にある児童発達支援放課後等デイサービス「ヒトツナ」さんに出会いました。2022年9月、代表に会いに行くと「この仕事は親御さんの支えになれるし、子どもたちの成長がなにより楽しくて幸せだ」と話してくれました。その言葉を聞いたら、僕もやりたくてしょうがなくなってしまいました(笑)。その人は「この仕事は本当に大変だから、覚悟を持って始めないと、途中で辞めるような無責任なことはできませんよ」というアドバイスをくれ、同時に「南里さんなら絶対大丈夫だから」と励ましてもくれました。

妻とも相談して2022年11月に開業を決心。クラウドファンディングで資金集めをし、1月に300万円が集まりました。自分の貯金と合わせて銀行に融資をお願いしに行き、物件探し、求人、東京都への指定業者の申請など、バタバタと準備を進めました。僕は未経験でなんのノウハウもありませんでしたが、埼玉県ですでに展開している「ヒトツナ」さんにいろいろと教えてもらいました。また、施設で使用する家具などの備品申請のために、友人や親族が深夜まで一緒に組み立てをしてくれたことも。周囲の人達の応援のおかげで、なんとか児童発達支援・放課後等デイサービス「HITONOWA南大泉教室」を開業することができました。

開設してみてわかった、厳しい現状

「HITONOWA南大泉教室」にて。子どもたちが自由に遊べる室内には、ハンモックや、おもちゃのキッチン、動画や時計を壁に写すプロジェクターなどもあります。

――教室でいろんな特性をもつ子どもの成長を見て感じることや、難しさはありますか?

南里 「HITONOWA南大泉教室」では、午前中は未就学児の児童発達支援、午後は小学生の放課後等デイサービスを行っています。子どもたちの成長が見られることにすごくやりがいを感じますし、保護者からも温かい言葉をいただけることもありがたいです。

ただ、やはり非常に難しさを感じる部分はあります。国は子どもの人数によって事業所の人員配置を決めますが、他害行為やかんしゃくが強いなどの特性がある子を預かるには、やはり人手が必要で、単純に数字では測れない大変さがあります。しかし、今のしくみでは職員数を増やすのが難しく、療育が必要な子ほど利用できない厳しい現状があることが、事業所を開設してみてわかりました。もう少し配慮のあるしくみの必要性を感じています。

いずれは就労支援にも取り組みたい

「子どもたちの成長を見られることがやりがい」と話す南里さん。

――今後の展望を教えて下さい。

南里 僕自身、ずっと料理の仕事に携わってきたので、いずれは食育も取り入れたいです。近所にいくつも畑があるので、じゃがいもを掘ったりして、それを子どもたちと一緒に、準備から調理、食べたあとの片づけまで取り組んでみたいな、と。食育を通じて、生活に役立つ力を身につけることができます。

さらに、将来的には就労支援なども行いたいです。障害のある子を育てる家族がぶつかる「18歳の壁」という言葉があります。障害がある子どもが高校や特別支援学校の卒業したあとは、放課後等デイサービスなどの福祉・医療サービスを利用できなくなったり、働くにも働けない、といった状況があるのです。だから、今預かっているお子さんたちが中高生以降になったときに、働くための準備をする場所にできたら、とも考えています。

以前、僕が料理人になったきっかけは、地元で友人たちとよく行っていたごはん屋さんの店長さんでした。地元の人たちがよくそこに集まって、店長さんも一緒にワイワイしている様子を見て、僕もこんな地元の人が集う場所が作れたら最高だな、と考えていました。もし、障害のある子どもたちも働ける居酒屋があれば、職業訓練所にもなるし、僕のかつての夢もかなえられるんじゃないか、と、そんなふうにも考えています。

――たいちくんの子育てで気づいたことはどんなことですか?

南里 たいちの病名がわかるまでは、周囲の人に相談できずに孤独を感じましたし、今も成長の先が見えない不安がまったくないわけではありません。けれど、たいちのおかげで、ぼくは福祉の世界を知ることができました。それまで自分が働いていた場所とは全然違う世界で、自分の当たり前は、実は当たり前じゃなかったことにも気づくことができました。 たくさんの温かい人との出会いも。たいちが生まれてくれたからこそ、世界が広がったと感じます。

お話・写真提供/南里健太さん 取材協力/ヒトノワ南大泉教室 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

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たいちくんの今後の成長についてはわからないことも多く手探りですが、「子どもが過ごしやすい環境を整えたい」という南里さんの熱意が、家族会や発達支援事業所の開設につながりました。 「本当に支援が必要な子どものための課題も見えた」と話す南里さん。昨年は厚生労働省の副大臣に直接面会をし、希少難病の子どもへの福祉や医療などの充実を訴えたそうです。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

HITONOWA南大泉教室

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