酒田捕虜収容所、忘れてならない 庄内地域の有志が記録集出版

酒田捕虜収容所の記録や住民の証言をまとめた「酒田捕虜収容所・空襲」

 太平洋戦争中、連合軍の兵士が送り込まれた県内唯一の捕虜収容所が、酒田市にあった。庄内地域の有志が、その存在を伝える記録集「酒田捕虜収容所・空襲~過去の証言、未来への教訓~」を出版した。戦時に国同士が敵対しても、収容された捕虜が住民から援助を受ける人同士の交流があったことなどを収録した。約80年前の忘れてはいけない事実を、後世に受け継ぎたいとの思いを込めた。

 全国組織の市民団体「POW(戦争捕虜)研究会」によると、戦中の日本には約130の捕虜収容所があった。本県では、1944(昭和19)年10月から45年9月までの間、現在の同市本町3丁目に設置された。収容人数は終戦時点で英国人やオーストラリア人など約300人。石炭や木材積み込み、家畜の解体といった労働に従事させられた。

 出版を企画したのは同研究会員の村田則子さん(76)=鶴岡市下川=ら4人。村田さんは2002年に横浜市から移住し、捕虜収容所があったことを学んだが、地域住民と話しても存在を知る人はいなかったという。「地域史として残す必要性を感じた」。20年から公開勉強会を開くなどして記録や証言を集めた。

 開設から閉鎖までの経過や捕虜の生活を克明にまとめた。特筆したのは元捕虜でオーストラリア軍医だったローリー・リチャーズさん。遺族の許可を得て自著「A Doctor’s War」を和訳し抜粋した。

 病死する仲間や酒田の厳しい冬の様子が記されている。そんな時、リチャーズさんに食料を分け与えた男性がいた。収容所で働いていた市内の松本勇三さんと友人の高橋忠吉さん(いずれも故人)で、医薬品確保に尽くしてくれたり、食肉を分けてくれたりした。

 優しさに触れたリチャーズさんは「私が“友人”と思った最初の日本人」「途方もない危険を冒してわれわれを助けてくれた」と書いた。リチャーズさんは59(昭和34)年に来県して2人と再会し、2011年には再訪し遺族と面会した。

 ロシアによるウクライナ侵攻、パレスチナ自治区ガザでの戦闘など争いが依然絶えない現代に、人としての交流の大切さを訴える記録集となった。「捕虜のいた風景」と題した章では「捕虜が荷車を引いて歩くのを見た」「英語を教えてもらった」という市民らの証言も掲載した。

 村田さんは「こうした歴史があったことを知ってほしい」と話す。A4判で123ページ。約500部を発行した。価格は千円。庄内地域の書店で販売している。問い合わせは村田さん080(5225)9785。

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