【朝ドラで話題】かつて「女性が法律を勉強する」というのは“こういうこと”だった…三淵嘉子が突き進んだ「茨の道」

(※写真はイメージです/PIXTA)

2024年4月1日から放送開始となる、NHK連続テレビ小説『虎に翼』。ヒロインのモデルとなった三淵嘉子(みぶちよしこ)氏は、日本における初の女性弁護士であり、初の女性判事であり、初の女性裁判所長となった人物です。女性差別がまだ激しかった昭和前期に「女性が法律を学ぶ」というのは、どういうことだったのか。神野潔氏の著書『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部抜粋し、見ていきましょう。

<前回記事> 【朝ドラで話題】「“お嫁さんになる女”にはなるな」昭和前期とは思えぬ“父の教え”――「日本史上〈初〉の女性弁護士・三淵嘉子」を育てた言葉

女性が法律を学ぶなんて「変わり者」「こわい」「結婚できなくなる」

嘉子は、東京女高師附属高女を卒業した後、法律の勉強をしていこうと思うようになっていました。

そのために、明治大学専門部女子部法科への進学を考えたのですが、嘉子が受験に必要な卒業証明書を取りに行くと、将来を心配した先生に強く反対されてしまいました。先生はおそらく、女性が法律を学ぶなんて、と思ったのではないかと想像されます。

日本に近代的な法律学を学ぶための学校ができたのは明治時代のことです。帝国大学に法科大学(法学部)が置かれたのに加えて、いくつもの私立法律学校が創設されていきました。

明治大学の前身にあたる明治法律学校は、その中心となる学校の一つでした(フランス法について学ぶ明治法律学校、東京法学校〈現在の法政大学〉、イギリス法を学ぶ英吉利法律学校〈現在の中央大学〉、東京専門学校〈現在の早稲田大学〉、アメリカの影響が大きい専修学校〈現在の専修大学〉の五校のことを特に、「五大法律学校」と言います)。

嘉子が進路を考えているこの昭和の時代には、これらの法律学校は大学になっていました(詳しくは後で述べます)。

さて、嘉子は先生の反対を押し切って明大女子部に入学手続を済ませたのですが、その時法事でたまたま東京にいなかった母ノブが、帰京した後でそのことを知り、やはり激しく反対しました。ノブは後に、熱心な理解者・応援者になってくれるのですが、この時は、将来自立できるかもわからないし、結婚できなくなると心配したのです。

しかし、開明的な父貞雄が嘉子の背中を押してくれ、一緒にノブを説得してくれました。こうして、1932(昭和7)年4月、嘉子は法律の勉強を始めることができたのです。

当時は、女性が法律を勉強するということは、「変わり者」というイメージをかなり持たれるものだったと嘉子は後に振り返っています。

嘉子自身、友人から驚かれたり、呆れられたり、「こわい」と言われたこともありました。日陰の道を歩いているような悔しさが、嘉子の心を襲うこともありました。

嘉子は後に、教育における差別こそが戦前の男女差別の根幹だった、人間の平等にとって教育の機会均等が出発点として重要であると述べていますが、当時はそのような差別を実感することもたびたびであったようです。

「明大女子部」は先進的な存在だった

さて、ここで明治大学専門部女子部について説明しておくことにしましょう。

1929(昭和4)年4月に開校したばかりの明大女子部は、法科と商科との2つの科を持つ三年制の学校でした(なお、これは本科のことで、1ヵ年の予科も設けられていました)。明治大学の学長であった横田秀雄、明治大学法学部教授で弁護士の松本重敏、そして、東京帝国大学の著名な教授で、明治大学法学部の教壇にも立っていた穂積重遠が中心となって創設し、遅れていた女子の高等教育を充実させる意図を持っていました。

1929年4月28日に開かれたその開校式において、横田秀雄は以下のような演説をして、女子部を設けた意義を説明しています。

少し長くなりますが、また少し難しいところもあるかもしれませんが、この時代の様子も明治大学の先駆的な姿勢も両方伝わる挨拶なので、その一部をここに引用しておきましょう。

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「明治大学が今回女子部を設けましたる理由は、一言にして申しますれば、時代の趨勢(すうせい)を看取(かんしゅ)してその要求を充たすといふことに外ならないのでありますが、試みにその主なる点を申しますと、女子の為に高等の教育を施しその学識を涵養し、その智見を開発し、女子をして学問上に於てその天分を発揮することを得せしむるが為に、学問の研究に関して均等の機会を與(あた)へるといふことが、我国刻下(こっか)の急務であるということがその一つであります。それから男尊女卑の旧習を打破し、女子の人格を尊重しその法律上、社会上の地位を改善して之を向上せしむるといふことも現代に於ける要求の一つであります。女子に高等教育を施すといふことが、即ちこの要求を貫徹するが為の最良の方法であると考へたといふことが、又その一つであります。又女子は家政を整理し社会に活動する夫を援(たす)けて後顧(こうこ)の憂(うれい)なからしめ、又家庭に於て専ら子女訓育の任に当り、所謂(いわゆる)良妻賢母たるを期すべきは勿論でありますが、是は浅薄なる学識を以てしては到底能(よ)くすることが出来ないのであります。故に真に良妻たり賢母たるの実を全うするが為にも亦高等の教育が必要である。斯(こ)う考へましたことがその一つであります。終りに女子が人格に目覚めたる今日に於て、又生存競争が日に月に激甚(げきじん)を加へつつある現代社会に於きましては、女子がその百世の苦楽を男子の手に委(い)し、家庭に籠居(ろうきょ)して安逸(あんいつ)を貪(むさぼ)ることを許されないのであります。時と場合とに依りましては女子自から社会に活動して自からその運命を開拓し、一身一家の為に尽すといふことがなくてはならぬ。併(しか)し是はどうしても教育の力に俟(ま)たなくてはならぬ。而も高等の教育に依つて初めてこの目的を貫徹することが出来るのであります。之が即ちその一つであります。」
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女性に学問研究の機会を平等に用意し、男尊女卑を打破し、女性の人格を尊重して社会的な地位を改善する。そして、女性が社会の中で活動し、自身の手で運命を開拓する。このような理念を掲げる学校で学んだことが、その後の嘉子の人生に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。多様な法学科目が配置され、一流の講師がそろい、充実した環境でした。

この明大女子部の第一回生には、後に明大女子部の教員として働くことになる立石芳枝や高窪静江もいました。

当時、女性が大学に行くことはかなり難しい状況

ところで、1918(大正7)年の大学令により、それまで「大学=帝国大学」であった状況が大きく変化して、帝国大学以外の官立大学・公立大学・私立大学が認められるようになっていました(それ以前にも、私立の学校で「大学」を名乗ることが認められている場合はあったのですが、これは法制度的には全て専門学校でした)。

大学令の制定後、それまで専門学校だった学校が昇格して、大学となっていきます。嘉子が東京女高師附属高女に通っていた頃は、帝国大学と大学とを合わせて(官立・公立・私立を合わせて)約45校が存在していました。

しかし、この頃の日本の学校教育制度では、男女のあいだには明確な差が設けられており、女性が大学に行くことはかなり難しい状況でした。

尋常小学校での義務教育(初等教育)の6年間は男女共学で平等なのですが、さらに勉強を続けたい男性は、例えば、中学校を経て、高等学校や私立大学の予科、多くの専門学校(この専門学校の一部が、前で述べた通り大学になったのです)、そして大学へと進学していく道が開かれていました(この頃の学校教育制度は「複線型」と呼ばれ、他にもいろいろな「ルート」があります)。

これに対して、学びを続けたい女性の場合の例としては、尋常小学校を卒業したあと高等女学校があり、その先には女子高等師範学校や女子の専門学校がありましたが、高等学校にも大学にも進学することはほぼできませんでした。ただし、大学については、北海道帝国大学、東北帝国大学、九州帝国大学、同志社大学などだけが、それぞれの条件のもとで、女性の入学を認めていました。例えば、九州帝国大学法文学部では、女子高等師範学校・女子専門学校などを卒業した女性に対して、高等学校を卒業した男性の入学を許可した後にまだ定員を満たしていない場合に限り、第二次募集での入学を認めていました。

そのような状況の中で、明大女子部は卒業後に明治大学への編入を認める制度を設けていました。新たなかたちで女子に対して門戸と未来を開こうと作られた学校として、明大女子部は注目を集めていきます。

法改正で弁護士は「男性限定の資格」ではなくなったが…

もう一つ、この頃の明大女子部を理解する上で重要なのが、弁護士法の改正です。

1922(大正11)年、司法省は弁護士法改正調査委員会を設置し、この委員会が1927(昭和2)年に弁護士法改正綱領をまとめました。そこには、それまで認められていなかった女性の弁護士を認める内容が含まれており、この方針はその後の改正作業でも重視されていきます。そして、最終的に改正案がまとまったのは1929年3月でしたが、実は明大女子部の創設は、この弁護士法改正の動きを踏まえたものだったのです。

嘉子の入学直後の1933年5月、改正された弁護士法が公布され(施行は1936年4月)、それまで「日本臣民ニシテ・・・成年以上ノ男子タルコト」(第二条第一)とされていた弁護士の資格が改められて、「帝国臣民ニシテ成年者タルコト」と「男子」の条件が削除されました。これにより、女性も弁護士になることができるようになったのです。

そもそも日本に弁護士という職業が登場したのは、明治時代でした。

明治政府は、西洋の近代的な司法制度を継受し、1872(明治5)年制定の「司法職務定制」によって、新しい司法の構造の大枠を包括的に定めました。この法に定められた、訴訟に際して代理を務める代言人が、弁護士のルーツです。さらに1876年制定の「代言人規則」によって、代言人はより具体的に制度化されました(1880年にはさらに改正されます)。とはいえ、この段階ではまだ整備不十分で、代言人に対する信頼も決して高くありませんでした(江戸時代に存在した非合法の訴訟代行業者である公事師の悪いイメージのために、批判的に見られることも多かったようです)。

1893年に、より近代化された弁護士法が公布・施行され、代言人は弁護士と呼ばれるようになります。試験制度も導入され、専門的な知識を身につけた重要な職業として位置づけられていきますが、それでも、判事・検事と比べるとその社会的地位は低いものでした(試験も、判事・検事は判事検事登用試験、弁護士は弁護士試験と別になっていました。試験制度が高等試験司法科として統一されるのは1923年のことです)。また、既に述べたように、弁護士になれるのは「成年以上ノ男子」に限られていました。

さて、話を嘉子の時代に戻しましょう。それまで男性に限定されていた弁護士の資格が、1936年からは女性にも広げられたわけですが、弁護士になるには難関な国家試験を突破しなければいけませんでした(この頃もなお、弁護士の地位は判事・検事と比べると低かったのですが、とはいえかつての代言人のイメージとは全く違うものになっていました)。

この頃の試験は、高等試験令(高等試験は1894年から1948年まで行われていた、いわゆる高級官僚の採用試験です。もともとは「文官高等試験」、1918年以降の正式な名称は「高等試験」ですが、嘉子の頃も一般には「高文試験」・「高文」と言いならわされていました)によって定められた高等試験司法科というもので、これに合格しないといけませんでした。

さらに、この高等試験司法科に合格したあと1年半の期間、弁護士試補として修習を受ける必要があり、その後にもう一度試験を受けて合格すると、やっと弁護士となることができたのです。

そして、高等試験司法科を受けるためには、厳しい予備試験にチャレンジするか、予備試験の免除を勝ち取るか(高等学校を卒業しているか、大学の予科を修了しているか、文部大臣が特に指定した専門学校を卒業しているかが条件)しかありませんでした。

結局、弁護士法の第二条第一が改正されても、この条件があることによって、女性が弁護士になるということはかなり困難だったのです。

その中で、先ほど述べた通り、明大女子部法科は、弁護士法が改正されることを見越してその少し前に開設され、さらに明大法学部への編入を認めていました。つまり、女子が弁護士を目指すには、明大女子部法科が最適の学校だったのです。

神野 潔
東京理科大学教育研究院 教授
1976年生まれ。2005年、慶應義塾大学大学院法学研究科公法学専攻後期博士課程単位取得退学。東京理科大学理学部第一部准教授、教授等を経て、現在、東京理科大学教養教育研究院教授。専門は日本法制史。主著に『教養としての憲法入門』(編著)、『法学概説』『概説日本法制史』(共編著)(弘文堂)などがある。

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