花見と言えば桜。そのきっかけを作りしは豊臣秀吉だった! 戦国武将も楽しんだ花見の話をしよう!

皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。

暖かい日が増え、外の景色もにぎやかになって参った! 春を感じる日々であるわな!

我ら「名古屋おもてなし武将隊」の本拠である名古屋城も様々な春の花が美しく咲いておる!

して、日本の春といえば桜である。

現世の城は公園として整備されており、桜の名所となっておるところも多くある。

弘前城や姫路城、高遠城などが特に人気であるが、なんと「日本さくらの会」が選ぶ名所百選には、29カ所も城が選出されておるのじゃ!!

無論名古屋城も選ばれておって、約900本の桜が咲き誇るまことに素晴らしき景色を楽しむことができる。

桜の人気もあり、春は一年で最も多くの客人が城を訪れる季節。故に、我らも楽しみにしておる。

さて、そんな此度の戦国がたりでは花見についての戦国豆知識を届けて参ろうではないか!

いざ参らん!!

花見の始まり

現世の皆も楽しむ花見。仲の良い者たちと花を見ながら飯を食い、酒を酌み交わすなど交流の場としても大切にされておると聞いておる。

そんな花見の歴史は古く、平安時代にはすでに花見という文化は確立されておったのじゃ!

豊作祈願の春の行事として花を見ながら唄を詠んだり、皆で蹴鞠をしたりと交流する場となっておった!

一つ異なるのは花の種類である!!

やはり現世の花見といえば桜であろう!

じゃが、かつては違った。

では、なんの花を見ておったのか。

儂の家紋に注目じゃ

それは、梅である!!

当時の日ノ本は大陸より伝わった文化が流行しておって、朝廷の宮中行事にも多く取り入れられておった。

梅の花も同じく大陸から持ち込まれ、親しまれたのじゃ!

梅の花が好まれた理由の一つに、春の花で最も早く咲くことがある。

厳しい冬に雪の中で花を開いて春の始まりを告げる姿は人の心を惹きつけたのじゃ!

今の時代よりも寒さが厳しかったこともあって、雪の中、花を咲かせる梅は苦難を乗り越えて成功する様子に重ねて縁起もよかったわけじゃな!

そんな梅の花を皆で囲みながら春の到来を喜ぶ。

これが花見の始まりであった。

因みに、儂、前田利家は家紋に梅をあしらっておるのじゃが、これは梅を愛した菅原道真公の血を引いておるからである!

道真様の屋敷には多くの梅の木があって、春を告げる花と香りは素晴らしいものであったそうじゃ。

道真様が陰謀によって太宰府に左遷された折には、

『東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな 』

と屋敷の梅の花に向けた句を読まれた。

そしてなんとこの句を受けた梅の枝が道真様を追いかけて一夜にして都から太宰府まで移動したという飛梅伝説なんかも残っておるほど。

これほどに愛した梅を道真様を祀る折に象徴と致したのが天満宮の始まりとなり、現世の梅の名所は道真様と関わりが深い場所が多いのじゃ。

秀吉が始めた桜の宴、吉野の花見

梅から始まった花見であるが、段々とさくらの花見が主流となっていった。

じゃが、これはあくまでも公家の文化であって、飲み食いをしながら皆で楽しく花を見る皆がよく知る花見が広まったのは江戸時代になってからなのじゃが、そのきっかけを作ったのは、天下人で日ノ本一の派手好きである豊臣秀吉である!

天下を統一した秀吉は、自らの力を世に示す意味も込めて大きな花見を二度開いておる。

まず一度目は多くの戦国武将を招いて行った吉野の花見である!

武将や茶人、歌人など五千人もの人が集うた大規模な花見であって、儂や徳川殿は勿論のことながら宇喜多秀家や伊達政宗など文化人としても名高い武将も集められておる。

花見は大いに盛り上がって秀吉自ら仮装をして余興を行い、皆を楽しませるなど現世に通じる楽しみ方をしておったのじゃ。

花見は5日間行われたのじゃが、はじめの3日間は雨が降り続き、激怒した秀吉が「明日晴れなければ山に火をかける」と言い放った。吉野の僧たちが総出で晴天祈願をしてなんとか雨が止み、無事花見ができたという裏話もあったりする。

この花見には民も多く参加しておって、まさに現世の花見の原型と言えるであろう!

醍醐の花見と、我が妻まつの活躍

そして、秀吉が催した二度目の花見が醍醐の花見である!

これは豊臣家中の者を中心に催された花見であるのじゃが、醍醐の花見ではなんと700本もの桜の木が秀吉の命によって各地から集められ醍醐寺の周りに植樹されたのじゃ!

更に参加した秀吉の側室たちには豪華絢爛な衣が何着も用意され、衣装代だけでも現代の価値でいうところの40億円相当かかっておった。

あたり一面が桜一色で美しく皆が煌びやかに着飾って誠に華やかであったそうじゃが、このもはや執念すら感じるこの花見は老い先短い秀吉を天下人の最期にふさわしい大きな宴として計画されたものでもあったのじゃ。

吉野の花見とは異なり醍醐の花見では諸大名は参加せず、唯一儂だけが招かれ、他はほとんどが女子であった。

余談ではあるがこの花見では茶が回ってくる順番で秀吉の側室・淀殿と松の丸殿が我こそが先であると揉めた場面があった。

そこを我が妻のまつが「歳の順で参れば私でしょう」と割って入り見事その場を収めたのじゃ!

客人の前に内輪揉めを始めた二人を軽く諫めつつ、茶会の空気を和やかにしたまつの機転と人柄の良さが分かる一幕であろう!

終いに

此度の戦国がたりはいかがであったか!!

此度話してきた通り花としての人気は高かった桜であるが、一斉に散る様が死を連想とさせることから縁起が悪いとされておったりもした。

他にも牡丹の花が茎から落ちる様子が斬首に似ておると避けられたり、反対にかたばみや橘は丈夫で繁殖力も強いことから好まれて多くの家が家紋にしておったりと、城と桜、武将と花。切っても切れないこのつながりを知ってくれたらうれしく思う!

先にも話したが、この時期は多くの城郭が桜によって美しく飾られておるで主らの近くにある城に足を運んでみて欲しい。

我らが待つ名古屋城でも春まつりが開催されておって、城内で花見に誂え向きの出店が出ておる他、令和六年四月七日までは夜も開城しておって夜桜も楽しめるでな。

皆が参るのを待っておるぞ!

これよりも戦国がたりにておもしろき話を届けて参るで、次も楽しみにしておくが良い。

それではまた会おう、さらばじゃ!!

取材・文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)

前田利家
名古屋おもてなし武将隊
名古屋おもてなし武将隊が一雄。
名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
今年の大河ドラマ『どうする家康』に合わせ、戦国時代の小話や、名古屋にある史跡を紹介致す。

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