お茶の水・文化学院で追っていた夢を諦めた私が、今叶えたいこと

大好きなアイドルグループが念願のCDデビューを発表した。

私はその発表を、5万人の観客のひとりとして京セラドームで聞いた。最年長のメンバーは29歳で芸歴15年だ。彼が最後の挨拶で涙を流しながら「夢は諦めなければ必ず叶う」と言ったとき、私はかつて夢を諦めたことを思い出していた。私も彼のように15年間諦めずに続けていれば、小説家になれたのだろうか。

ドーム中に灯る赤いペンライトの光の中、私はひそかに決心した。次に夢を持つことがあったら、なにがなんでも15年は諦めないと。

18歳の私は、「なりたい職業」は決まっていなかったが、「やりたいこと」は明確にあった。

ひとつは小説を書くこと。私は小さな頃から小説を読むのが好きで、高校生になると自分でも書くようになった。北海道新聞社が主催する中高生を対象とした文学賞で、優秀賞をもらったこともある。

もうひとつは演劇だ。高校生のときに地元の小劇団で演劇活動をしていて、自主公演で脚本を書かせてもらったこともある。役者としての才能がないことは自覚していたが、脚本や演出について学びたい気持ちがあった。

そんなわけで、高校卒業後は小説と演劇の両方を学べる専門学校に進学を決めた。かつて御茶ノ水にあった(今はもうない)文化学院という学校だ。

文化学院には創造表現科と美術科があり、私は創造表現科だ。文芸創作、文学、語学、演劇などの授業があり、大学と同じように自由に選択できる。文化服装学院と学校名が似ている上に個性的なファッションの生徒が多いので、服飾の授業があると思われがちだがそれはない。

創作系の授業は「ゼミ」と呼ばれる。一般的な大学でいうゼミとは違って単なる授業のことを指し、所属する意識は低い。複数のゼミを掛け持ちすることも可能で、講師陣はみんなその道では一流の方々だ。

たとえば、シナリオゼミの講師はあの山田洋次監督だった。高校生のとき、両親と共に文化学院を見学した帰り、御茶ノ水駅近くのおそば屋さんに入ったら、山田監督がゼミ生らしき若者数人とおそばを食べていたことがある。寅さんファンの父はウキウキした表情で「さすが学費が高いだけあるな」と言った。

私は入学すると、シナリオゼミと小説ゼミ1と現代詩ゼミに入った。その他は、演劇系やメディア論などの授業を取った。本当は小説ゼミ2にも入りたかったが、「小説ゼミ1の受講経験がある人が対象」と書いてあったため諦めた(が、実際のところは空きがあれば受講経験がなくても入れたらしい。そんなふうにシステムに緩さがある学校だった)。

小説ゼミ1は「モノローグ」や「書簡体」などのお題が出され、提出された作品の中からいくつかを先生が音読し、感想を述べる。書き方を教えてくれるわけではなく、初回の授業で「では、書いてきてください」と言われた。書き上げられることが大前提なのだ。

私は課題を書くのが大好きで、シナリオゼミも小説ゼミ1も、毎回喜んで課題を提出した。だって、それまでは家でひとりで書いていたのだ。それを、学校の課題として書けるなんてうれしすぎる。お題があるぶん自由に書くよりも難しくてやりがいがあるし、同じ授業を取っている仲間と創作の話ができるのも楽しい。私はそれまで周りに小説の話ができる友達がいなかったので、小説について話せる環境があることに歓喜した。

しかも、私はどのゼミでも課題を褒められることが多かった。先生からも友達からも「良かったよ」と言ってもらえる。そのため、「自分には才能がある」と恥ずかしい勘違いをしてしまった。また、この時期は本を読みまくって、映画のDVDも観まくっていた。知識や語彙が増えた上に、評論家気取りの先輩たちの影響を受けて、学校の中庭で何かの作品に対して生意気な感想を述べたりするようになった。「それっぽい」ことを言っている自分に酔っていたのだ。

しかし、自分でも書いている私はまだマシなほうで、学校には「いっぱしのことを言うくせに小説を一作も完成させたことがない人」がたくさんいた。不思議なことに、誰もそれに対して突っ込まない。そういう人が偉そうに他人の作品を批評したり、なぜか自分が将来大物になる前提で話したりしていても、「いや、あんた一作も書き上げたことないじゃん」と言う人はいなかった。

この学校はお金さえ出せば誰でも入学できるため、モラトリアムの雰囲気が色濃い。私を含め、もともと社会に適応するのが苦手な生徒が多いのだ。そのため、みんな次第に課題を提出しなくなったり、学校に来なくなったりした。自由すぎる校風のため、それをたしなめてくれる大人はいない。「創作の道で食べていく才能や覚悟はないけど、かといって一般社会にも適応できない」といった、どこにも行けない学生を量産する環境だった。

2年生になると、私は演劇の授業を取るのをやめて、文芸創作の授業を中心に取るようになった。この学校で教えていた演劇が私の好みと合わなかったこともあるし、1年生のときに自主的に長編を書いたことで、それまで以上に小説にのめり込んでいたのだ。私はいつしか、「小説家になりたい」という夢を抱くようになった。

もちろん、念願の小説ゼミ2にも入った。小説ゼミ2の講師は、その年から芥川賞作家の長嶋有先生が務めていた。私はそれまで長嶋先生の作品を読んだことがなく、教わることになったのをきっかけに読んでみた。そして、『ジャージの二人』と『パラレル』に衝撃を受け、大ファンになった。純文学を読んで声を出して笑ったのははじめてだ。

長嶋先生の小説は、物語や登場人物ではなく、「感じ方」を描くことに重きを置いている(ように見える)。その感じ方は、「わかる~!」と共感することもあれば、自分からは絶対に出てこない発想に驚くこともあった。

長嶋先生の授業は、はじめの頃は生徒に順番におすすめの小説を持ってこさせ、生徒が朗読し、全員で感想を言うという内容だった。雑談も多かった気がする。長嶋先生のトークは面白く、私はいつもラジオを聴くような感覚で授業を楽しんでいた。

私は熱心な生徒だったので、先生からの覚えもよかった。あるとき長嶋先生が授業中に「吉玉さんからTシャツをもらう夢を見たよ」と言ったことがある。夕方の学校(文化学院ではない高校のような校舎)の階段ですれ違いざまに私に「Tシャツ、置いておきましたから」と言われ、教室に行くと誰もいなくて、机の上にかっこいいデザインのTシャツだけが置かれていたそうだ。敬愛する作家の夢に登場するなんて光栄で照れくさい。

最初は人数が多かった長嶋ゼミだが、だんだんと人が減っていき、熱心な生徒だけが残った。先生は私たちを飲みに連れていってくれることもあった。

やがて、授業の形式が変わった。生徒が順番に作品を書き、全員がそれをあらかじめ読んできて講評し合う形になった。もちろん、長嶋先生も細かく講評してくれる。

私は夏休みを費やして『ジョバンニの食卓』という長編小説を書いた。

高校生の美希は、3歳のときに母親に去られ、父親の広治と暮らしている。美希は自分ができたために広治が夢を諦めざるを得なかったことで、はっきり言語化はしていないものの、罪悪感のようなものを抱いていた。そのこともあって広治をはじめとする周囲の人たちから愛されていることに気づかず、自分の将来に対しても投げやりだ。そんな彼女が、広治に恋人ができたことをきっかけに、自分と向き合って成長していく。

長嶋先生は丁寧に感想を述べて、アドバイスをくれた。特に「主人公の周りの人たちがみんないい人すぎて、主人公にとって都合のいい物語になっている」という指摘は耳が痛かった。

長嶋先生の指摘はいちいちもっともだった。私は自意識過剰で生意気な生徒だったが、長嶋先生のことは心から尊敬していたので、斜に構えることなく真っ向からすべて吸収した。

『ジョバンニの食卓』の添削は数回にわたって行われた。長嶋先生は、加筆や修正を加えることはない。それをしてしまえば、長嶋先生の文章になってしまうからだ。先生はただ気になる箇所を指摘し、私はそこを直した。直しては見せてを繰り返し、最終稿ができたところで、長嶋先生は言った。

「吉玉さんは文章を書く人になるんだから、この一作に込めすぎなくていいよ。この作品に書かなかったことは、次の作品に書けばいいだけだから」

長嶋先生は私を納得させるために言っただけかもしれないが、それは私にとって忘れられない言葉となった。それ以来、ことあるごとにその言葉を思い出しては、「私は書く人になるんだから……」と自分に言い聞かせた。

『ジョバンニの食卓』はすばる文学賞に応募したが一次選考で落選した。

3年生のときは卒業制作として、四人姉妹それぞれの視点から描く連作短編集を執筆した。これも長嶋先生に見てもらい、何度も直して完成させたが、一次選考で落選した。

卒業後も3作品ほど長編を書いて応募したが、よくて二次選考どまり。4年ほど投稿を続けたのち、作家になる夢を諦めてしまった。夢を追うのも諦めるのも、どちらも苦しかった。諦めると決めたとき、自分が自分じゃなくなったみたいで寄る辺なかった。

その後は山小屋のバイトを続けながら、途中で結婚したり長旅に出たりしていたのだが、旅から帰ってきて旅行記を書いたことで、「文章を書きたい」という思いが再燃した。ちょうどその頃Webライターという職業を知り、「Webライターになりたいな、でももう30代だし未経験だし無理かな」と逡巡した。

すぐに挑戦する勇気がなかった私は、その後も山小屋の仕事を続け、数年後にWebライターに転身した。最初は稼げなかったが、だんだんと仕事が増えて生活も安定し、書籍も2冊ほど出すことができた。「作家になる」という最初の夢は叶わなかったが、「Webライターになる」という二度目の夢は叶えた実感がある。

本を出したとき、長嶋先生に本を送らせていただいた。先生は私のことを覚えていないかもしれないが、私はずっと先生の「吉玉さんは文章を書く人になる」という言葉を信じてやってきたから、文章を書く人になったことを伝えたかった。

本の感想は特になかったが、長嶋ゼミで一緒だった友人は、「サキちゃんが本を出して、長嶋先生は喜んでると思うな。先生のことだから、サキちゃんが売れたら『オレの教え子なんだよ』って自慢するよ、きっと」と言った。

今回、エッセイに長嶋先生のことを書いていいかご本人に尋ねたら、一言「よいっすよ」と返ってきた。きっと、先生はこのエッセイを読むだろう。長嶋先生に文章を読んでもらえると思うと、うれしいけれど少し怖い。

今の私の夢は、エッセイ集を出版し、その帯文を長嶋先生に書いてもらうことだ。

この夢が叶うまで、なにがなんでも15年は諦めないと心に決めている。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

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吉玉サキ
ライター・エッセイスト
札幌市出身。北アルプスの山小屋で10年間働いた後、2018年からライターに。著書に『山小屋ガールの癒やされない日々』(平凡社)、『方向音痴って、なおるんですか?』(交通新聞社)がある。山では迷ったことがないが、下界では方向音痴。

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