CERN元所長が語る、科学と平和に捧げた百年

「物理学は知性のために。音楽は感情のために」—そう話すヘルヴィッヒ・ショッパー氏は百寿を迎えた今でもよくピアノに向かう (swissinfo.ch)

世界最強の粒子加速器の立ち上げに貢献し、素粒子研究の国際拠点を成功に導いた偉人が今年、百寿を迎えた。欧州合同原子核研究機構(CERN)の元所長、ヘルヴィッヒ・ショッパー氏は、現在も科学技術の国際連携を通じた平和の実現に尽力する。 ※SWI swissinfo.chでは配信した記事を定期的にメールでお届けするニュースレターを発行しています。政治・経済・文化などの分野別や、「今週のトップ記事」のまとめなど、ご関心に応じてご購読いただけます。登録(無料)はこちらから。 1981〜1989年にスイス・ジュネーブにあるCERNの所長を務めたドイツの物理学者、ヘルヴィッヒ・ショッパー氏は、これまで多くの国家元首や宗教指導者と顔を突き合わせて議論し、幾多の重要な科学的発見と外交協力を実現してきた。そして現在でも「スケジュールがすぐに埋まってしまう」からインタビュー時間を確定するよう自ら催促のメールを書く——こんな百寿者は世界中で一体どれだけいるだろうか? 濃厚な伝記 今年、ショッパー氏の伝記が科学出版大手シュプリンガーからオープンアクセス書籍として発刊された。270ページを超える同書には、同氏の百年間の多彩な経験と膨大な業績が綴られている。本記事の限られた紙面ではその全てはとても紹介できないが、興味のある方は同書を参照されたい。 ジュネーブ郊外にショッパー氏を訪ねた。私たちを迎えた同氏の眼差しは活力と好奇心に満ち、1世紀に渡る長い人生の経験と、相手を楽しませる会話のコツを心得ている様子がすぐに伝わってきた。 次の動画では、ワールド・ワイド・ウェブが基礎研究の副産物として誕生したことや、マーガレット・サッチャー元英首相、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世と対談したことなどについて語っている。 「仕事は2人分、給与は1人分」 ショッパー氏は1981年、CERNのトップ2役職(研究局長と事務局長)が統合された初の所長として就任した。まず着手すべきは資金の確保だった。年間固定予算の導入と加盟国からの実験への資金提供の仕組みをつくり、財政システムの再構築を行なった。 「1人で2つの役目をこなさねばならないことに対してよく文句を言っていた」とショッパー氏は当時を振り返る。 その後、史上最も野心的な科学的事業となる電子・陽電子衝突型加速器(LEP)の建設に貢献した。LEPは全周27キロメートルの円形地下トンネル実験施設だ。同地には後に大型ハドロン衝突型加速器(LHC)が建設されることになる。LHCは現在世界で最も強力な粒子加速器であり、人類が作った最も精巧な機械でもある。この大型実験施設で宇宙を構成する基本要素である素粒子の探求が行われている。2012年に発見された「ヒッグス粒子」もその1つだ。 ノーベル賞は現代科学にマッチしない W、Zボソンと呼ばれる、弱い力を伝えるボース粒子もショッパー氏の思い入れ深い素粒子だ。 これらのボース粒子はイタリアの物理学者カルロ・ルビア氏が発案・推進したUA1実験(1981〜1990年にCERNで実施)により、その存在が確認された。「約200人が参画した」この国際的な大規模実験は、数十人程度の小規模グループ単位で行われていた当時の高エネルギー物理学の研究分野において画期的な取り組みだったと話す。 ショッパー氏は私たちに配慮して専門的な詳細には触れない。W、Zボソンの発見によって、量子力学の標準模型の基本要素の1つである、いわゆる弱い核力(核子間の相互作用)の存在が明らかとなったと簡潔に解説する。「弱い核力は自然界において最も重要な力の1つだ。この力が存在しなければ太陽はエネルギーも光も産出できず、私たちは太陽の恩恵を受けられない」 この画期的な素粒子の発見に対し、その翌年の1984年、ルビア氏と共同研究者のシモン・ファン・デル・メール氏にノーベル物理学賞が授与された。ファン・デル・メール氏は、素粒子の衝突頻度を向上させ検出感度を上げる計測方法を開発。同素粒子の発見に大きく貢献した。 ノーベル財団から受賞決定の知らせを受け取った時、ショッパー氏は喜びと同時に、受賞した2人だけでなく、実験に参画した数百人もの人々の努力があったからこそ成し得た発見であることが強調されるべきだと感じた。だがノーベル賞の創設者であるアルフレッド・ノーベルの遺言を実行するノーベル財団の規定では、受賞者は1課題につき3人までとされている。 こうした規定に縛られているノーベル賞は、分野融合と複雑化の進む現代科学にはもはやマッチしていないとショッパー氏は指摘する。「素粒子物理学に限らず、他の分野においても同様に、現代科学の発展には共同研究が不可欠だ。そのような時代において、こうした名誉ある賞の受賞者が3人までに限定されていることは適切ではない」 「開けゴマ!」 CERNは1954年、米国に対抗できる卓越した科学研究拠点を欧州に形成し、国際共同研究を推進することを目的に設立された。真の共同研究を実現するには、その数年前まで互いに戦争状態にあった国々が歩み寄り結束することが不可欠だった。「科学を平和の手段に、と当時よく話していた」 ショッパー氏が達成したCERNを中核とする共同研究ミッションは誰もが真似できるものではない。その手腕は、1989年の CERN所長退任後は外交協力に発揮されることになる。現在「科学外交」と呼ばれている、科学による外交・外交による科学を目指す活動だ。 「CERNの名声と成功の体験を活かして各国を結束させたかった」とショッパー氏は言う。 その最初の取り組みは、2017年にヨルダンに設立した国際共同研究施設「セサミ(SESAME = Synchrotron-light for the Experimental Science and Applications in the Middle East)」として結実した。名称にはこだわった。「CERNのように頭文字をとっただけで意味を成さない単語」ではなく、その文化圏で意味のある言葉を探し「千一夜(アラビアンナイト)の扉を開ける呪文」をその名に冠したとショッパー氏は誇らしげに微笑んだ。 SESAMEと粒子加速器の運用は国連教育科学文化機関(ユネスコ)のもとに進められている。CERNと同じ仕組みが導入され、各加盟国から代表2人(科学者と政府関係者1人ずつ)がSESAME運営組織に携わっている。 現在の加盟国は、ヨルダン、キプロス、エジプト、トルコ、パキスタン、イラン、イスラエル、パレスチナ自治区だ。驚きだろうか、とショッパー氏は言う。SESAMEは、イスラエルやイランなど政治的に対立し紛争が起こっている国同士であっても、国の代表者が同席し、プロジェクトについて平和に協議できる唯一の国際機関なのだ。 「信じ難いかもしれないが、現在の厳しい中東情勢下でも協調体制は機能している。政治的に様々な問題を抱えながらも、互いに協力し合い平和に物理学の探求を続けている」 中東の次はバルカン半島 ショッパー氏は、中東同様に近隣諸国間の関係が思わしくないバルカン半島地域にも研究拠点を設立し、科学技術の国際共同体制を構築すべく働きかけている。 バルカン半島の拠点にも、SESAMEにとってのユネスコのような役割を果たす包括的な支援機関が必要だ。そこで同氏が白羽の矢を立てたのが、多国間主義の長い伝統があり、赤十字の設立などの実績を持つスイスだ。2019年、スイスのイグナツィオ・カシス外相は昼食会の席で、同取り組みへの協力に同意した。 その後スイス連邦外務省はバルカン諸国に働きかけ、2021年、科学技術に関する国際共同研究機関の設立を目指した取り組み「SEEIIST」を開始した。「South East European International Institute for Sustainable Technologies(=持続可能な技術のための南東欧国際研究機構の意)」の頭文字をとったものだが、そのエレガントとは言い難い名称は、ショッパー氏をいささかガッカリさせたかもしれない。 「物理学者も人間」 CERNの国際共同事業に関しても、ショッパー氏のスイスへの評価は高い。ジュネーブをCERNの本拠地に選んだ人々は、その決定の重要性に気付いていなかったかもしれないが、同事業の成功にその立地が果たした役割は極めて大きいと言う。 一番の理由として①交通の便がよく②中心部に位置しているという地理的な利点を挙げ、③文化的環境④湖や山などの自然環境⑤国際性のいずれも高水準であることも決定的に重要だとした。 「やはり物理学者も人間だし家庭がある。CERNに対抗する粒子加速器をテキサスに建設するプロジェクトが失敗した理由は立地だ。誰が砂漠の真ん中に住みたいと思うか?」 ウェブと次世代加速器 ジュネーブの優れた立地条件は、現在CERN(現所長はイタリア人のファビオラ・ジアノッティ氏)が推進する新型円形衝突型加速器「Future Circular Collider(FCC)」構想の実現にも有利に働く可能性がある。FCCは全周91キロメートルの超大型の円形地下トンネル実験施設であり、現行のLHCの7倍に相当する100テラ電子ボルトの大きなエネルギーで粒子を衝突させることが可能になる。 ショッパー氏もFCC構想の成り行きを注視しているが、関係者が直面している課題は、同氏らが約40年前にLEPを建設した際に経験した困難と重なる。 最大の課題は、基礎研究が社会にどう役立つかを人々に説明し納得させることだと指摘する。基礎研究は成果が得られるまでに時間がかかり、ましてや最終的な商品として市場に出るまでに数十年は要する。そこで同氏は基礎研究から生まれた大ヒットの成果例としてワールド・ワイド・ウェブ(WWW=World Wide Web)を挙げた。 今日のインターネットの発展をもたらしたWWWは1980年代に誕生した。実験データを世界中の大学に効率良く転送する必要性からCERNで開発されたもので、いわば基礎研究の副産物だ。 ショッパー氏は、WWWをCERNの特許として申請するかどうか、発明者のティム・バーナーズ・リー氏から相談を受けたとき、できる限り多くの専門家に意見を聞いた。 「ジュネーブやブリュッセルでも聞いた。皆、口をそろえてこう返答した。『その必要はない。しょせん、物理学者しか興味を示さないようなネットワークだろう』」そこでバーナーズ・リー氏には、自身の発明を好きにして構わないと伝えた。 「結局、バーナーズ・リー氏は米国に移り、賢明なやり方で実用化に成功した」 そう話すショッパー氏は、CERNで特許化しなかったことを後悔しているようには見えない。百年の長い年月を見つめてきた眼差しの先にあるのは、もっと別のことだ。 「もし科学がなかったら、何を子供たちに教えることになるだろうか?地球の年齢が約4千歳だとか、太陽が地球の周りを回っているとでも?過去50〜60年間に渡りCERNで行われ、現在も継続する科学探求の成果も、学校で教える時が来る。それは、さほど先の話ではないだろう」 編集:Sabrina Weiss and Veronica DeVore/ts、英語からの翻訳:佐藤寛子、校正:ムートゥ朋子

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