『GTOリバイバル』反町隆史は何をリバイバルしたのか 時を経ても変わらない名作の核心

伝説の教師が帰ってきた。4月1日に放送された『GTOリバイバル』(カンテレ・フジテレビ系)は、結論から言うと期待を裏切らない仕上がりだった。

1998年に放送された『GTO』(カンテレ・フジテレビ系)。反町隆史演じる型破りな高校教師・鬼塚英吉が一大センセーションを巻き起こした。スペシャルドラマ、リメイク版を経て、26年の時を超え、ついにオリジナルキャストによる続編が実現した。

98年版は良くも悪くも平成という時代の空気を反映していた。バブルがはじけて景気が低迷し、大人も子どももどこへ行けばいいかわからない「言いたいことも言えない世の中」で、鬼塚の直球すぎるメッセージは、老若男女すべての胸に突き刺さった。当時でさえ、その破天荒さは観る者の度肝を抜いたのに、それが令和の世に繰り返されたら? コンプライアンスが重視され、すべてに説明責任が求められる中で、理解されないどころか、確実にヘイトの対象となってバッシングを受けるに違いない。

そういうわけで、今作が何を“リバイバル”するかにはとても関心があった。鬼塚英吉という異分子を、令和という時代は弾いてしまうのではないか、という問題意識が今作の根底にある。しかし、ドラマを観た方はわかると思うが、今作は良い意味で前作を踏襲していない。98年版に漂う平成っぽさは、前作のキャストである松嶋菜々子、池内博之、窪塚洋介、小栗旬、山崎裕太の登場シーンで感じられるくらいで、クリアになった映像や年輪を重ねた反町のたたずまい、サスペンス調の展開は、むしろ違うドラマであることを主張しているように見えた。

スベり気味のギャグセンスや軽いノリは置いても、ドラマの中の鬼塚は若気の至りだった20代の頃よりも自身のしていることを自覚していて、着実に大人になっている。日向亘扮する宇野がナイフをおもちゃ代わりに振り回す仕草をのぞけば、八木莉可子や畑芽育が演じる生徒たちは平成の頃よりずっと醒めていて、人生に対する達観は諦念すら感じさせる。では、違う作品かというと決してそうではない。26年ぶりの新作を観て「確かに『GTO』の続編である」と感じさせる何かがあった。

そのことを「教師の熱意が生徒を動かす」と読み解くことはできるだろうか。教育現場の課題は、時代は変わっても人が成長する上で必然的に生じるものである。援助交際がパパ活に変わり、いじめがネットの誹謗中傷になっても、教育は人間同士の問題で、人と人が向かい合い、言葉を介して思いを交わすことでしか前に進まない。98年版で教師として赴任する鬼塚が、レンタルビデオ店で『金八先生』のビデオを借りるシーンがあった(第1話)。無軌道で破天荒な鬼塚は、少なくとも心構えに関してはドラマで描かれる理想の教師像を受け継いでいた。

『GTO』は学園ドラマに新たな風を吹き込んだ。同作の後も、『ごくせん』(日本テレビ系)、『ドラゴン桜』(TBS系)など、時代に応じて型破りな教師が登場したが、それらと98年版そして今作がどう違うかと問われると、教師らしさの度合いと答える。リバイバル版を観て改めて感じたのは、鬼塚がまったく教師に見えないことである。ケンカ、暴走、ギャンブル。悪いことを一通り履修した鬼塚は、それなりに丸くなった今も自身のあり方を変えていない。デリバリーの配達員がしっくりくる、いい年をして何をしているかわからない風貌も含めて、どう見ても教師ではないのだ。「30の高校をクビになった」はキャラ設定として説得力があった。

アンチ教師としての教師、という点で反町隆史の鬼塚は完璧だった。生徒の家の壁をハンマーでたたき壊すことも、生徒のために背中を貸して踏み台になることも、教師が絶対にやらなそうなことをやる点で、まさしく鬼塚英吉そのものだった。反対に、ブランドもののバッグをチェーンソーで切り刻む行動や、本来、感動的な台詞であるはずの「お前は最高に優しいやつだ」や「ガキの頃にできた傷はガキの頃に治してやんないと」は、こそばゆさも手伝ってやや上滑り感があった。岡崎紗絵演じる担任の綾原のほうが、教師に求められる役割をストレートに体現していた。リバイバル版は、はからずも『GTO』という作品のコアにあるものを浮き彫りにしたことになる。

令和の今、言葉と情報が氾濫しているにもかかわらず「言いたいこと」はより言いにくくなっている。反町隆史がBLUE ENCOUNTとともに歌う主題歌「POISON」が新鮮さを失わない時代に、鬼塚英吉という架空の教師に託す物語があることを『GTOリバイバル』は明らかにした。

(文=石河コウヘイ)

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