『虎に翼』モデルの三淵嘉子はどんな人? 女性法曹の先駆者として波乱万丈の生涯

女性の裁判官というと、アメリカ連邦最高裁判事を27年にわたって務めたルース・ベイダー・ギンズバーグが有名である。2020年9月に死去したギンズバーグは、人権の守り手として重要事件の判決に関わった。2024年度前期NHK連続テレビ小説『虎に翼』主人公のモデルは、弁護士のちに裁判官となった三淵嘉子さんだ。

女性で初めて高等文官試験司法科(現在の司法試験に相当)に合格し、女性初の裁判所長となった三淵さん(以下、敬称略)は、日本における女性法律家の草分けである。『虎に翼』というタイトルは中国の思想家・韓非子の格言に由来し、強いものがさらに勢いを得ることをいう。嘉子(旧姓・武藤)が生まれた1914年(大正3年)は寅年で、気丈で負けず嫌いの性格は虎にたとえることができる。

今でこそ女性は弁護士の約2割、検察官と裁判官の約4分の1を占めるが、法律を扱う法曹三者は長い間、男性の仕事とされてきた。明治期に裁判制度が導入されても、女性が弁護士や裁判官になる道は閉ざされていた。嘉子の父・武藤貞雄は進歩的な人物で、長女の嘉子に専門職の仕事に就くことを奨励した。女性に法律家の門戸が開かれたのは1933年(昭和8年)。弁護士法が改正され、女性も試験に合格すれば弁護士として活躍できるようになった。

1938年(昭和13年)11月、高等試験司法科に女性の合格者が誕生する。嘉子と田中正子、久米愛の3人は明大女子部と法学部の出身で、高名な民法学者の穂積重遠らに薫陶を受けた。穂積は民法分野の親族や相続に関する「家族法の父」と呼ばれる。女性の受験資格を認めた1933年の弁護士法改正にも尽力しており、ドラマで主人公の運命を変える人物として登場することが予想される。

嘉子はとても優秀だった。女子部を卒業して進んだ法学部の成績は男女合わせてトップ。自らの考えを論理的によどみなく言語化できる嘉子にとって法律家は天職だった。修習を経て弁護士として働き始めた嘉子は、母校の講師を務めるなど順調なキャリアを歩んでいく。

嘉子の人生を語る上で、女性のフロントランナーだったこと、二度の結婚、そして戦争を避けることはできない。法律の世界に足を踏み入れた嘉子たちには、常に「女性初」の呼称が付いて回った。女性であることを理由にした偏見や特別扱いに行く手を阻まれた。

戦前の民法では、妻は財産に関する行為について「無能力者」とされ、家制度の下で女性は家庭に縛り付けられていた。女性が法律を学ぶことは「行き遅れ」で、弁護士になる意義を理解する人は少なかった。司法科の試験を突破した嘉子たちだったが、裁判官にはなれなかった。戦後、新憲法のもと男女平等が宣言されると、嘉子は裁判官への採用を直談判しに行く。苦労は絶えなかったと推察されるが、自らの手で道を切り開いた。

嘉子は二度結婚している。一度目は、1941年(昭和16年)。武藤家の書生をしていた和田芳夫と結婚し、長男を授かった。芳夫は穏やかな性格で嘉子の仕事にも理解があった。しかし、出征した帰途で病死してしまう。二度目の結婚は1956年(昭和31年)で、再婚相手は同僚で同じく裁判官だった三淵乾太郎。乾太郎の父の三淵忠彦は戦後、大審院に代わって設立された最高裁判所の初代長官として知られる。

二度の結婚を経て嘉子は5人の息子と娘の母となった。家庭裁判所で悩める少年少女の導き手として5千人を超える少年審判に関わった嘉子は、家族にだけ見せる表情があったようだ。妻、母としての横顔がドラマでどのように描かれるか注目したい。

戦争は嘉子の人生に大きな変化をもたらした。弟の一郎は戦死、夫の芳夫も帰らぬ人となり、両親は戦後の混乱期に相次いでこの世を去った。我が国の法体系は終戦を境に一変する。天皇主権の明治憲法から国民主権の現行憲法へ。民法、刑法をはじめ主要な法律が生まれ変わった。「私の人間としての本当の出発は、敗戦に始まります」と嘉子は記している。戦争が嘉子から奪ったものは測り知れない。嘉子の戦争に対する思いは、後年の原爆裁判に結実していく。

女性法律家の先駆者として、妻、母として、戦後日本を生き抜いた三淵嘉子の足跡は多くの示唆を与えてくれる。『虎に翼』を観る私たちは、主人公の生き方を通してたくさんの勇気をもらえるはずだ。

参考
佐賀千惠美『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』(日本評論社)
清水聡『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(KADOKAWA)
内閣府男女共同参画局「男女共同参画白書 令和5年版」
(文=石河コウヘイ)

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