小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=117

 私と貴美の結婚生活は、十八年目で終わった。友人の銀婚式に招かれて、私たちもあと七年経ったら盛大にやるわ、その時にはダイヤモンドの指輪が欲しい、新型の自動車が欲しいと楽しみにしていたのに、その日を待たずに妻は手折るように逝ってしまったのだ。

 和子は結婚後一年で生まれた一人っ子で、今年十七歳である。私はハンドルをパウリスタ大通りへ向けて切り、妻の眠るアラサ墓地へ行った。

「どうせ人間は死ぬけど、もう暫く生きたいわ。今私が死んだら和子もまだ子供だし、パパだって毎日の炊事が大変でしょう……」

 と心配しつつ病魔と戦っていた貴美の苦衷の日々が悲しく甦ってきた。癌であることを知らせるには、彼女の神経はひ弱すぎたし、それを知らねばこそ、快復を焦っての痛々しい努力が、看るものの

眼に辛かった。

 墓地の鉄柵門を入る。意匠を凝らした墓碑群が所狭しと立ち並んでいる。風に鳴るユーカリの古木の下を歩くと、人間界の雑音が遠ざかり、不思議と心の安定が得られる。

 貴美の墓に達する数百メートルの距離と、墓碑に合掌する暫くの間に、私は亡き妻との対話をほしいままにした。胸の内を占めていた空洞が、いつの間にか満たされてくるのを感じていた。 

 

(二)

 

 サンパウロ市の中心街から十数キロ南方に大規模の市立植物園とそれに隣接して動物園がある。そこに通ずる街道の一区割りにヴィラ・ロボス地区があり、二百家族に近い邦人が居住していた。

 私はこの区域に宅地を求め、表に面して小さな写真館を建てた。続いて裏側に住宅を建てる計画は、貴美の発病で見合わせていた。

 手術後の貴美は順調に快方へ向かって体重も増した。胃癌だが、初期だから心配には及ばないと医師に言われていた。が、何となく慰めの言葉としか受け取れなかった。本人の体質や病状にもよろうが、手術後の癌患者の平均寿命はあまり長くないようだ。病名を知った親戚の者や友人たちは様々な薬草、迷信と思える祈祷を勧めてくれた。日本からの制癌剤も取り寄せ投与してみた。薬効は、いずれも芳しくなかった。

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