「奈良時代の仏教は現代とは違う?」 伝来当時の日本仏教について解説

画像:備中国分寺 wiki c Saigen Jiro

現代の日本人は、特定の宗教に依存しない無宗教の人が多い。
しかし、日常生活の中では「神道」や「仏教」と関わる機会はとても多い。

仏教においては、家族や仕事関係などで葬儀や法要などに参列することがあるだろう。
初詣にお寺に出かける人もいるのではないだろうか。
仏教は、日本に伝来してから今日まで人々の生活に深くかかわってきたことから、生活の中の色々な部分に溶け込んでいるのである。

そのような仏教だが、奈良時代の仏教は現代とは少し違うものであった。

奈良時代における仏教とは、一体どのようなものだったのだろうか。

目次

仏教伝来から奈良時代までの歴史

画像:東大寺戒壇院戒壇堂 wiki c ignis

仏教が日本に伝わってきたのは西暦538年のこと。
朝鮮半島経由で伝わった仏教は、様々な経典を介して伝来したことから、戒律も不完全なものであった。

まず伝来当時の仏教は、「仏が国や民を護る」というものであった。

そのため、八百万の神の子孫と考えられていた当時の人々からすると、「よそ様の神」が持ち込まれたことになる。
こうして崇仏派と廃仏派で争いが生じたが、崇仏派であった蘇我氏が争いを制したことで、天皇や豪族も仏を崇拝するようになっていった。

飛鳥時代に突入すると、天皇や皇族により国が管理する「官寺(かんじ)」が建立されるようになる。
併せて有力な豪族たちも、一族の繁栄のために「氏寺(うじでら)」を建立するようになった。

その寺院には僧や尼僧を配置し住まわせていた。

仏に護ってもらうためには、その寺院に仏に通じる者が不可欠であり、仏の力を借りるためには僧に悟りを開いてもらい、僧に仏になってもらう必要があると考えたからだ。

このような寺院が明日香地域に多く作られていたが、都が平城京に移ると、法隆寺のようにそのまま明日香の地に残る寺院もあれば、平城京に移る寺院もあった。

奈良時代を迎えるころには、遣隋使遣唐使が中国から直接持ち帰ってきていた仏教の教えや経典などから、色々な宗派が生まれていた。

画像:聖武天皇 public domain

聖武天皇の治世になると、天変地異や疫病の蔓延などがあったことから、聖武天皇は仏教の力で国を護ってもらうとする「鎮護国家」の思想をもって、国家宗教として仏教に傾倒していくようになったのである。

このように政治に仏教を持ち込んだ末、僧の道鏡が力を持ってしまい、宇佐八幡宮神託事件といったトラブルも発生している。

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そのような中、最澄空海が天台宗や真言宗を持ち帰り、平安時代には「小乗仏教」から「大乗仏教」へと変化していくようになるのである。

奈良仏教の特徴

画像:興福寺 wiki c 663highland

奈良時代の仏教には6つの宗派はあったが、現在のような教えごとから独立してできた派閥のようなものではなく、学派に近いものであった。

当時の宗派は「南都六宗」と呼ばれており、法相宗・倶舎宗・三論宗・成実宗・華厳宗・律宗があった。

そして当時の寺院は、これらいずれかの宗派に属していたわけではなく、寺院の中で各宗派の研究が行われていた。
現在の大学をイメージするといいだろう。
大学の中にある学部、それが当事の寺院と宗派の関係だといえる。

そして僧たちは、釈迦の教えにしたがった厳しいルールを守りながら修行していたのである。
しかし、仏教伝来からさまざまな部分が経典となって伝えられたことで、正しい戒律が行われているかは不明であった。

遣唐使として唐に渡って帰国してきた僧や学者たちからも「唐で見てきた仏教の姿と、国内における仏教の姿は違う」といった指摘があったことから、聖武天皇は中国から僧を招きいれ、正しい戒律を指導してもらう方法を取った。

そして当時の僧は、僧尼令(そうにりょう)という令により統制されており、扱いは現在の公務員のようなものであった。
そのため、僧になれば税金を納めなくていいという特権が与えられていた。

このことから、正規の手順で僧になるのではなく、税逃れのために僧になる私度僧が増え、問題となっていた。

この問題を解決すべく、唐から戒律を授けることができる僧を日本に招き、その僧の元で受戒した者でなければ出家できないというルールが作られたのである。

※唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像」 public domain

こうして、鑑真(がんじん)が中国より招かれた。

聖武天皇をはじめ、多くの人々が独自解釈の戒律による出家ではなく、当時の正しい戒律をもって出家することとなった。

聖武天皇と仏教

画像 : 東大寺盧舎那仏像 wiki c Mass Ave 975

このような背景があったことで、聖武天皇は仏に国を護ってもらおうと仏教を政治に取り入れていった。

日本全体だけでなく、それぞれの律令国単位でも仏の加護が得られるように、741年に国分寺・国分尼寺を各律令国に建立する指示を出した。
当時創建された寺院の中には今も現存する寺も多く残っており、地名にもなっていたりする。

経典の中では、護国の経典である金光明経が特に尊重され、大規模な写経が行われた。
金字で書かせた経典を、全国の国分寺の塔に安置するように命じている。

743年になると、聖武天皇は「大仏造立」の命令を出した。

唐には既に巨大な石仏などがあることを遣唐使から報告を受けていたこともあり、人々にも目で見てわかる形の大仏を作ることで「2度と社会が乱れず、人々が平穏に暮らせるようにしたい」と考え、大仏造立を始めたのである。

こうして国を護るために作られた大仏が、約10年の歳月を経て752年に完成したのである。

参考文献
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社

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