谷山浩子、ピアノは「最初はとにかくつまらなかった」中学でプロ作曲家デビューを果たした子ども時代

谷山浩子 写真/能美潤一郎

シンガーソングライター・谷山浩子の歌声に魅了されない者はいない。『まっくら森の歌』や『恋するニワトリ』といった、『みんなのうた』(NHK/Eテレ)でおなじみの楽曲から、斉藤由貴へ提供した楽曲『土曜日のタマネギ』など、アイドルから声優まで幅広いプロデュースを手掛けている。今年でデビュー52年目を迎えるシンガーソングライター、谷山浩子の人生の転機とは?【第4回/全6回】

「こんにちは」という声すらも、楽曲のような旋律に聞こえる谷山浩子さんの声。ステージ上と変わらず、谷山さんがそこにいるだけで場を和やかな雰囲気に変えてしまうようだった。

歌うこと自体は子どものころから好きだったという、彼女の原点となる作詞と作曲は7歳のころから始まっている。

「子どものころの夢は、漫画家と作詞作曲家でした。でも、絵がすっごく下手だったので漫画家はすぐ諦めました。作詞作曲家は、筒美京平さんみたいに自分は表に出ないで誰かに歌ってもらう仕事をやりたいって思っていたんです。

通っていた中学校の近くにキングレコードがあって、もう裏門から走って30秒とかそれくらい近くて、たまたま薄いコネがあったので、キングレコードのディレクターさんに作った曲を聴いてもらっていました」

中学2年生でプロ作曲家としてデビュー

谷山さんは中学1年生の頃から、自作曲をレコード会社の人に聞いてもらっていた。それがプロへのスタートだった。

「中2の時に、ベイビー・ブラザーズ(のちのフィンガー5)のシングル曲のB面に曲が採用された。それがプロの作曲家としてのデビューですね。その1年後に、“今度は自分で歌ってみない?”って言っていただきました。性格的に人前に出るのが苦手だったので、すごく迷いました……。

当時はシンガーソングライターという言葉が出始めたばかりで、キャロル・キング(※アメリカ出身のシンガーソングライター)が売れていた。ディレクターさんは、“中学生が自作の歌を歌うのは面白い”って思ったんじゃないかな。いきなりアルバムをレコーディングして、シングルも出してデビューしました。だから、自分からなりたくて歌手になったのとは違いましたね」

言葉を選びながら当時を振り返る谷山さん。

「同じような音楽をやっていても、シンガーソングライターって呼ばれる人と、フォークっていうくくりになる人がいた時代です」

谷山浩子 写真/能美潤一郎

ピアノを習い始めてすぐ後悔、「つまらなかった」

「両親が音楽をやっていたので、家に古いピアノがありました。子どものころからおもちゃがわりに遊んでいたんですけれど、5歳の時に“習いたい”って言ったんです。でも、習い始めてみてすぐ後悔しました。

とにかくつまらなくて、でも親は絶対に辞めさせてくれなかったので仕方なく習っていました。『いろおんぷばいえる』という音符に色がついた楽譜を使っていたのですが、それが自分の原点かもしれないですね」

子どものころから自然と身についていた作曲活動。その裏には両親の影響もあった。

「父はビッグバンドでジャズを演奏していて、トランペットを吹いていました。母もクラシックの声楽をやっていたのですが、父のバンドのマネージャーみたいなこともやっていたらしくて。10代 の頃までは私の曲作りにも口を出してうるさかったです。

家にはジャズとクラシックのレコードしかなかったけれど、いつでも音楽が聴ける環境でした。あとは、お小遣いで欲しいものを買ったりしていました」

――今のような楽曲づくりをするようになったのはいつ頃からでしたか?

「最初の曲は、歌詞が先だったか、曲が先だったのか覚えていないんですが、童話作家の浜田広介さんが好きだったので、幼稚園のころから詞は作っていました。初めて曲を作ったのは7歳だったので、その時は作詞が先だったのではないかって思いますね」

メロディと歌詞のハーモニーが自然な谷山さんの楽曲だが、どのように制作しているのだろうか。

「中学生になってから、父親からコードを教えてもらいましたが、小学生のころは、コードはなしでメロディだけ作っていました。ピアノを習い始めた5歳のときから、練習は嫌いだったけれど、ピアノを弾きながら歌うのは楽しかったので、好きな曲を自分の耳でコピーして弾いていました。最初はものすごくつたない伴奏だったのですが、なんとかオリジナルに近づけようと頑張ってマネしていました。

5歳から通っていた音楽教室では、ピアノと並行してソルフェージュ(※楽譜を読むことを中心とした基礎訓練)も習っていました。そこで譜面の書き方を教わっていたので、メロディが浮かんだらそれを譜面に起こすことができたのが、作曲に関しては大きかったのかもしれないです」

谷山浩子 写真/能美潤一郎

デビューのころから変わらない谷山さんの澄んだ歌声。唯一無二ともいえるその個性を、本人はどう感じているのだろうか。

「若いころと比べると声は変わりました。15歳のときのデビューアルバム(『静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜』、1972年リリース)の声は、子どもっぽい歌い方です。でも人前で歌う時に、昔の曲を崩したりして歌うのはお客さんががっかりするだろうなって思うので、歌い方をできるだけ変えないようにしています」

天賦の才能を感じさせる谷山さんだが、その原点は幼少期の音楽教育なのかもしれない。

谷山浩子(たにやま・ひろこ)
1956年8月29日生。神奈川県出身。シンガーソングライター。中学在学中からオリジナル曲を作り始め、1970年にベイビー・ブラザーズのシングルで作詞作曲家としてデビュー。1972年4月25日、アルバム『静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜』とシングル『銀河系はやっぱりまわってる』で一度目のデビュー。1974年『第7回ポピュラーソングコンテスト』で『お早うございますの帽子屋さん』が入賞。同曲で翌年、再デビュー。1977年シングル『河のほとりに』をリリースし、3度目のデビュー。以後、「オールナイトニッポン」をはじめとするラジオ番組のパーソナリティ、童話、エッセイ、小説の執筆、全国各地でのコンサートなど、精力的に活動中。

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