中国電力の源流に渋沢栄一がいた!? 実は前身企業の初代会長

70歳当時の渋沢(渋沢栄一記念財団提供)

 戦前に存在した電力会社の広島電気が1934(昭和9)年に刊行した社史をひもとくと、「渋沢子爵」という人物が登場する。7月に1万円札の肖像となる国内資本主義の父、渋沢栄一(1840~1931年)だ。

 渋沢は1895(明治28)年、広島の経済人から会社設立への協力を請われた。当時「我が国で最も斬新だった」とされる電力事業。発電計画を見た渋沢は「これは面白い」と快諾し、2年後に発足した広島水力電気の初代会長に。相談役も含めて12年間携わった。

 広村(現呉市)で水力発電を始め、広島市にも送電した。当初の4年は赤字だったが、徐々に経営は安定。渋沢栄一記念財団(東京)の前身の法人がまとめた伝記資料によると、渋沢は古希を機に役職を退いた際に「有望な会社。前途に危険はなかろう」と見据えた。

 広島水力電気は後の合併で広島電気になった。さらに中国地方の同業者とも統合。戦後に現在の中国電力に発展した。

 明治維新後に大蔵官僚を務めた渋沢は「国を富ますには商工業を隆盛にせねばならぬ」と実業家に転じ、約500社の経営に関わった。電力事業を経済発展の礎と考えたのか。伝記をたどれば、地方の1社にまで強い思いを込めていたことが分かる。

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