【光る君へ】 紫式部は再婚だった? 彼女の先夫説がある紀時文とは

紫式部の夫と言えば、藤原宣孝(のぶたか)が有名です。

しかし一説には、宣孝との結婚前に夫がいたとも言われているとか。

今回は紫式部の先夫?とも言われる紀時文(きの ときぶみ)を紹介。

果たして彼はどんな人物で、どのような生涯をたどったのでしょうか。

目次

偉大なる父親の背中に苦悩する

時文の父・紀貫之(画像:Wikipedia Public domain)

紀時文は延喜22年(922年)、紀貫之(つらゆき)の子として誕生しました。

姉妹には紀内侍(ないし)、女子(実名・詳細不明)の存在が確認されています。

村上天皇に仕え、父親ゆずりの歌才を見出されて天暦5年(951年)に梨壺の五人(朝廷のお抱え歌人トップ5)として抜擢されました。

他にも『万葉集』の訓読(当代語訳)や『後撰和歌集』の撰集を担当するなど、文学分野において活躍したようです。

それだけでなく、時文は書にも秀でる能書家でした。

村上天皇の御代において月次屏風の色紙を手がけたり、安和元年(968年)に執り行われた冷泉天皇の大嘗会(だいじょうえ。皇位継承に伴う神事)で使用する屏風に揮毫したりなど、大変な栄誉を得ます。

こうした事から、当世を風靡した小野道風(おのの とうふう/みちかぜ)亡き後、兼明親王(かねあきらしんのう)に次ぐ書の権威となったのです。

ただし貴族としては中級程度の評価であり、その位階は従五位上、官職は大膳大夫(だいぜんのだいふ/おおかしわでのつかさ)に留まりました。

※もちろん、それでも日本国全体からすれば、トップクラスのエリートなんですけどね。

また、和歌の才能についても三十六歌仙の一人と謳われた父親・紀貫之には敵いませんでした。

勅撰和歌集の入撰は『拾遺和歌集』など5首のみであり、家集も伝わっていません。

※家集は自分で作るのではなく、後世の人々など他者が評価して作るものです。

人並み以上の才能には恵まれたけど、偉大なる父親を越えることが出来ずに苦悩する姿は、いつの時代も変わりませんね。

とは言え、当時一流の歌人であったことは間違いなく、時文は歌壇において盛んに交流しました。

恵慶法師(えけいほうし)や大中臣能宣(おおなかとみの よしのぶ)、清原元輔(きよはらの もとすけ。清少納言父)や源順(みなもとの したごう)など、現代に知られる有名人ばかり。

内心の鬱屈はともあれ、かなり華やかな暮らしをしていたものと思われます。

そして長徳2年(995年)ごろに世を去りました。

子供には紀輔時(すけとき)・紀時継(ときつぐ)・紀文正(ふみまさ)・紀時実(ときざね)がおり、それぞれ家名を受け継ぎます。

夫婦と言うより祖父と孫娘?

画像 : 月岡芳年「古今姫鑑 紫式部」

以上、まず紀時文の生涯をたどってきました。

絵に描いたような文人エリートで、才知にあふれた紫式部の伴侶として、才能的にはお似合いなのではないでしょうか。

※下手をすると、いつも張り合って喧嘩してしまうリスクがありそうですが……。

しかし気になるのは二人の年齢差。紀時文が延喜22年(922年)生まれとされているのに対して、紫式部の生まれは諸説あって天禄元年(970年)ごろ。

50歳近くも年齢が離れとおり、父と娘どころか祖父と孫娘でもおかしくありません。

もし二人が夫婦であったならば、恐らく経済的理由が大きかったものと思われます。

紫式部の結婚適齢期が15~20歳とすると、時文との結婚時期はおおむね(984年)~永祚元年(989年)。この時点で、時文は還暦を過ぎていました。

当時、紫式部の父親・藤原為時は花山天皇の出家で失脚して以来、まだ官職にありつけていません。

経済的な支援が目的で、紫式部が時文と結婚しても不自然ではないでしょう。

もはや老齢となっていた時文と紫式部がどのような夫婦生活を営んだか(そもそも結婚していたか)は、想像の域を出ません。

ただ、父と同じく紫式部にとっても、苦難の時期であったことは間違いなさそうです。

しかし、時文であれば才媛として知られた紫式部と学識的には釣り合うでしょう。

夫婦というより、年の離れた趣味友達のような関係を楽しんでいてくれたらな、と思わずにはいられません。

エピローグ

大弐三位(画像:Wikipedia Public domain)

長徳2年(995年)、紀時文は世を去りました。

そして長徳4年(998年)ごろ、紫式部は藤原宣孝と結婚(再婚?)します。

宣孝も紫式部より20歳ほど年長(父・為時と同年代)でしたが、時文もの年齢差からすれば、それはもう若々しく見えたことでしょう。

そして一人娘の藤原賢子(けんし/かたいこ。のち大弍三位)を生みますが、長保3年(1001年)に宣孝が先立ってしまいます。

二人の夫?を見送った紫式部は、生活のために藤原彰子(しょうし/あきこ。一条天皇中宮)の元へ出仕するのでした。

これ以降、紫式部が結婚することはなかったようですが、藤原道長の妾となった説もあると言います。

NHK大河ドラマ「光る君へ」に紀時文が登場することは、恐らくないでしょう。

しかしもしかしたらチラッと出てきて、まひろ(紫式部)と微妙な視線を交わす……そんなシーンが描かれるかも知れませんね。

※参考文献:

  • 春名好重『人物叢書 藤原佐理』吉川弘文館、1989年7月
  • 南波浩『紫式部の方法 源氏物語 紫式部集 紫式部日記』笠間書院、2002年11月

© 草の実堂