「気配りの人」鈴木健二さん悼む声、青森県内でも 県立図書館館長、市民講座主宰「本県に大きな影響」

県立図書館長・県近代文学館長に就任し、抱負を語る鈴木健二さん=1999年4月、青森市の東奥日報社
鈴木さんが旧制弘高時代に北溟寮で撮影した写真の複製(前列中央が鈴木さん)と、寄稿が載った寮紙(ともに弘前大学付属図書館収蔵)

 3日に死去が報じられた元NHKアナウンサーの鈴木健二さんは、1999年4月から5年間県立図書館館長などを務め、青森市で市民講座「あおもり塾」も主宰するなど多くの県民に親しまれた。訃報に際し、ゆかりの人たちからは「残念」「もっとお話ししたかった」と悼む声が上がった。

 「青森県に大きな影響を残した方だっただけに、極めて残念だ」。県生涯学習課課長補佐だった98年当時、故木村守男知事の指示で鈴木さんを青森県に招聘(しょうへい)する役割を担った青森中央学院大の高橋興特任教授(77)は、東奥日報取材に声を沈ませた。

 鈴木さんは県立図書館と県近代文学館の館長を務める傍ら、「県文化アドバイザー」として県内全市町村を巡った。随行した高橋さんは「朝早く街並みを見て回り、夜は首長らを交えた講演会でまちづくりの極意を熱心に説いた。旧制弘前高校を卒業し『青森に育てられた』と話されていて、恩返しのつもりだったのだろう」と思い起こす。

 県近代文学館主幹として鈴木さんと仕事をともにした櫛引洋一さん(68)=弘前市立郷土文学館企画研究専門員=は、「とても頭の回転が速い人だった」と語る。櫛引さんが詩人・福士幸次郎の企画展について相談したところ、「5分ぐらい考えて急に、福士の似顔絵、企画展タイトルなどを紙にフリーハンドでさらさらと書いた。その高い能力に驚いた。人柄も穏やかでまさに気配りの人だった」と振り返った。

 弘前ペンクラブの斎藤三千政会長は、鈴木さんの下で近代文学館室長を5年間務めた。部下を温かく見守る人だとし、「文学館は君に全て任せると言ってくれてうれしかった。駄目と言われたことはなく、私たちの話に『それいいね』と引っ張ってくれた」。「年賀状をやりとりしていたが返事が止まって、もしかしたらと思っていたが…」と声を詰まらせた。

 「鈴木先生からは『人のためになってこそ人』と繰り返し聞かされた。先生の教えがなかったら、今とは少し違う人生を歩んでいたかもしれない」と名残惜しそうに語ったのは、「あおもり塾」を修了した有志でつくる「こころクラブ」で副会長を務める八戸市の有馬克美さん(74)。

 同会は、鈴木さんが青森を離れた後も会報にエッセーの執筆を依頼するなど交流を続け、新型コロナウイルスの感染拡大前まで上京して会食をともにしたという。「みんなの話を静かにうなずきながら聞いていた姿が印象的だった。またお会いして、もっとお話ししたかった」と惜しんだ。

▼旧制弘高で青春過ごす

 鈴木健二さんは1945~47(昭和20~22)年度、弘前大学の前身である旧制弘前高校で青春時代を過ごした。2005年刊行の「旧制弘前高等学校史」への寄稿では、北溟寮(ほくめいりょう)の寮務委員長として寮生の食料確保に奔走したことや、仲間たちと夜通し人生や恋愛を語り合った思い出などを記している。

 「涙・混迷・空腹そして青春」と題した寄稿によると、兄の清順さんが太平洋戦争に学徒出陣したことで死を意識し、自分が召集される前に静かな環境で学ぶため、兄と同じ旧制弘高に進学したという。弘前で暮らし始めた時のことを「リンゴの花の甘い香りが続く向うに野づらがひろがり、~思わず涙が溢(あふ)れそうになるほど静かな幸せが私を包んでくれた。戦争がどこで行われているのかと錯覚するようであった」(以下、引用は原文のまま)と記している。

 45年8月の終戦後、寮務委員長を1年10カ月務めた。食べ盛りの寮生600人の食事を確保するため、漁船に乗って北海道などへ買い出しに行ったり、進駐軍と交渉して食料を分けてもらったりした。園地からリンゴを盗んだことも打ち明けている。学生自治会の委員長も引き受け「学校へ出る暇はなかった。~三年で卒業したのは奇蹟(きせき)に近かった」という。

 寮生活中のさまざまな出来事を振り返り「昼も夜も心を照らし合う友が数百人もいた」「夜を徹して、人生や恋愛や青春や死、或(ある)いは文学を語り合った人間関係の楽しさは、あれ以来少なくとも私には再び訪れてはいない」と懐かしんだ。

 弘大付属図書館には、当時の鈴木さんと寮生の集合写真や、寮紙「北溟」への寄稿文、鈴木さんが脚色などを務めた演劇の冊子などが所蔵されている。
 

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