市川團十郎、最後に稽古を見てくれた父・十二世團十郎からの手紙を明かす 本名で「堀越寶世へ」

歌舞伎座『團菊祭五月大歌舞伎』の取材会に出席した市川團十郎【写真:ENCOUNT編集部】

亡くなる2か月前の父の言葉「休むことを学ばなければいけなかった」

歌舞伎俳優の市川團十郎が4日、都内で行われた歌舞伎座『團菊祭五月大歌舞伎』の取材会に出席した。

團菊祭は、“明治の劇聖”とうたわれた九世市川團十郎と五世尾上菊五郎の偉業を顕彰するために始まった五月興行恒例の祭典。今回の『團菊祭五月大歌舞伎』の昼の部では、江戸時代初期の浅草花川戸に実在し、日本の侠客(きょうかく)の元祖と言われた幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべい)を主人公にした物語『極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべい)』を上演。團十郎は襲名以降初めて長兵衛役を勤める。

子どもの頃から出演してきた團菊祭について聞かれると、「昔は團菊祭に出ることは当たり前で、楽しかったですね。当時は(市村)羽左衛門のおじさんや、(尾上)梅幸のおじさんもいて、今の音羽屋(の尾上菊五郎)も、うちのおやじ(十二世市川團十郎)も若かった。40代ですね。そういう中で、わたくしや、(菊五郎の息子の尾上)菊之助も、(尾上)松緑も10歳にいくかいかないかくらい。おやじやおじさんたちの演目で、楽しく過ごさせていただいていた。年間行事は父たちと一緒に歌舞伎を勉強するという、なんともいえない空気があったんです」と懐かしんだ。

しかし、「歌舞伎座の建て替えくらいから、我々も年齢があがり、先輩たちも旅立つ。海老蔵時代は責任が増してくるのを感じながら、『楽しい』だけではなくなってきた。今回は2回目の團十郎としての団菊祭なので、背負わないといけない」と、責任とともに味わった変化を語った。

今回演じる長兵衛役は、2013年2月に白血病で亡くなった父・十二世團十郎から最後に教わった役。團十郎は、「10年12月に父が再入院をして、13年の正月に僕が浅草公会堂で舞台をやっていた時に、父が人工呼吸器をつけることになりました。母や妹が立ち会っていて、浅草公会堂からテレビ電話で父と話したのが最期になりました」と振り返った。

亡くなる2か月前の12年12月に、自身の長兵衛役の稽古を撮影したDVDを病室に送っていたといい、「稽古のお話をしたり、DVDを見ていただいた内容を、私の本名の『堀越寶世へ』と手紙をつづってくれて。手紙の中に、私がやっている幡随長兵衛への思いや、『こうだと思うよ』『もっと周りをこういう風にしてほしい』と書いてくれていて、思い出に残っている」と懐古した。「あまり褒めることをしない父でしたけど、その時は珍しく『悪くないんじゃないのか』と。その時に父が見て、『悪くない』と思ってくれたように、頑張りたいなと思いました」と語った。

また「父は最後、悟ってたよね。『自分がダメかもしれない』というのを」と明かし、「弱気なところがない父で真面目だったので、12か月の歌舞伎興行のうち11か月は出ていたんですね。それが彼の中では重要なことだった」と説明。「でも12年の12月に病室に行った時に、彼が『私は休むことを学ばなければいけなかった。もっと自分の身体に向き合うことをやらなければいけなかった』と、僕と2人でいた時にボソッと言ったんです」と、当時の様子を語った。「弱っていたのか、(長兵衛役の稽古のDVDを)喜んでましたね」と懐かしんだ。ENCOUNT編集部

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