【キューティー鈴木連載#最終回】涙が出ないほど12年間のプロレス人生に悔いはありません

トレードマークの真っ白のコスチュームで引退試合を行った(98年12月)

【キューティー鈴木・白い青春(最終回)】1997年8月16日に大好きな麻里ちゃん(プラム麻里子)は旅立ちました。対戦した尾崎(魔弓)も麻里ちゃんのご両親もつらかったはずです。でも麻里ちゃんのパパもママも「プロレスは彼女が自分で選んだ道だから」って誰のことも責めず、前向きでいてくれて。なんて素晴らしい方なんだろうと思いましたね。

それから少しして、私も引退を意識するようになりました。29歳になるころに30代でキューティーはないだろうって。20代で「キューティー鈴木」を終わりにしたかったんです。でも、引退を考えたのは麻里ちゃんが亡くなって、健康な体のまま辞めるっていうのが一番の親孝行かな、と考えたからでした。それに後輩も育ってきて、もう私がしてあげることはないって思えたんです。

そう決断してから、すぐに会社に「引退を考えてます」って伝えました。具体的な日取りは会社側に委ねましたけど「『急に辞めます』は嫌です」って言ったのに、3か月前に「最後の日は12月27日です」と決められて。ちょっとカチンときましたよね。私の中では1年か短くても半年ぐらい前に、記者会見して引退ロードをやりたかったのに…。まあ、仕方ないと切り替えました。

親に引退を電話で報告したときも「こんないきなりなの?」って動揺していて。その後にデビル(雅美)さん、尾崎、(ダイナマイト)関西に「話があるんです」と、ご飯を食べながら引退を報告しました。みんなから「早すぎる」って止められたけど「会社に言われたときに辞めるのが一番いいタイミング」と納得してくれて。でもデビルさんだけは、会社の引退のさせ方を最後まで怒ってくれて、そんなに思ってくれてるんだって感動しましたね。後輩たちにも「いつまでも先輩に甘えるんじゃなくて責任を持って、今度は後輩たちを育てるんだよ」って伝えました。

引退当日もそこまでの緊張はなかったです。本当なら引退試合は、私と麻里ちゃんと尾崎と関西の4人でタッグマッチがやりたかった。それでも当時JWPを離れていた尾崎とシングルもできたし、悔いはなかったです。ファンのみんなが白い紙テープをたくさん投げてくれて。あれはキレイだったな…。

引退のときも、涙が出てこなかったくらい12年間のプロレス人生に悔いはありません。最初どうしようもなく、つらかったけど、いい人にたくさん巡り合えた。大好きな、一生懸命に戦い抜いたプロレスが、今も形を変えて残っていることが本当にうれしい。今のレスラーも悔いなく楽しいプロレス人生を歩んでほしい。そして、もっとたくさんの人にレスラーの生きざまを見てもらいたい。そう願って、これからもプロレスを愛し続けます。(終わり)

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