連載小説「ふつうの家族」【第5話】 作:辻堂ゆめ

画:伊藤健介

 靴下履いてなくてよかったぁ、とため息をつきながら、小柄で華奢(きゃしゃ)な娘が先にリビングへと入っていく。舞花(まいか)が右手に持っているスマートフォンには、赤い有線イヤホンが差し込んであった。電機メーカー勤務の和則(かずのり)が、十年以上前に職場でもらってきたサンプル品だ。小学三年生から通い始めた体操クラブで選手コースに上がった舞花が、床運動の演技中に流す曲をいつでも聴けるようにしたいと言い出したため、「店で買うと一万円以上もするイヤホンなんだから大事にするんだぞ」と何度も念押しして与えたものだった。

 子どもの頃(ころ)から飽きっぽかった海(かい)と対照的に、妹の舞花は、大学三年生の現在に至るまで器械体操一筋だ。所属体操クラブの推薦で体育科のある高校に進学し、大学も女子体育大を選んだ。脚の怪我(けが)をきっかけに競技は二年生までで辞めてしまったようだが、このところは体操部の活動で審判の勉強にいそしんでいるらしい。

 大学のそばに住んでいる舞花が、昨夜この家に帰ってくることを決めたのは、授業が終日休講になったからということだった。各鉄道会社が昼過ぎから電車を計画運休すると前の日のうちに発表したことで、企業や大学が早めの判断を下せたのだろう。和則の会社もそうだった。鉄道会社勤務の海までも今日の午後になって突発的に帰省してきたことには驚いたが、話を聞くと、「たまたま近くにいて、いきなりやることがなくなった」のだという。

 確か、若手社員である海はまだ現場配属で、駅員か乗務員の仕事をしていた。乗客が来ないと分かっているのだから、現場には最小限の人員のみ残しておけばよく、それで急遽(きゅうきょ)仕事から解放されたのだろう。もし本社に栄転した後だったら、泊まり込みで運休や再開の判断を迫られていたかもしれないと思うと、今回の計画運休は海にとってラッキーだったのかもしれない。

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 つじどう・ゆめ 1992年生まれ。神奈川県藤沢市辻堂出身。
東京大学法学部卒業。「東京大学総長賞」を受賞。2015年、第13回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し、「いなくなった私へ」でデビュー。「トリカゴ」で大藪春彦賞受賞。「十の輪をくぐる」で吉川英治文学新人賞候補。2022年には青春ミステリー「卒業タイムリミット」がNHK総合で連続ドラマ化された。

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