【対談連載】シー・シー・ダブル 代表取締役社長 金成葉子(上)

【西新宿発】金成さんは、いまのように女性が働き続けることが当たり前ではなく、男女雇用機会均等法や育児休業の制度などまったくなかった時代に若くして独立起業し、経営者として今日まで会社をけん引してこられたスーパーウーマンだ。創業時から高い技術力でIT業界の発展に貢献してこられた業界の大先輩である。その金成さんに、この「千人回峰」で、現在に至るまでの軌跡や経営者としての考え方を、女性経営者の一人としてじっくりうかがいたいと思った。

(本紙主幹・奥田芳恵)

2024.3.7/東京都新宿区のシー・シー・ダブル本社にて

「お花の水あげが好きな人」の

フレーズで見事、人材獲得に成功

芳恵

こちらは、とても清潔感のある明るいオフィスですね。

金成

ありがとうございます。私はオフィスがきれいに片付いていないとダメなタイプで、社員たちには「入り口の雰囲気で会社のイメージは決まる」といつも言っているんですよ。

いまはこういう高層ビルに入居していますからお掃除の業者さんが入りますが、昔は毎週金曜日の夕方5時になると、終業時刻の6時まで、みんなで雑巾をもってお掃除したものですよ。

あと、植木の手入れも自分でやっています。「よく咲いてくれたね」とか「きれいだね」と声掛けしながら、水やりをするんです。

芳恵

社長自ら、水やりをされるのですか。

金成

実は、私がやるのは久しぶりなんです。20年以上、植木の世話をしてくれた総務の女性社員が1年ほど前に退職してしまいました。最初、その社員に私が手入れの仕方を教え、それを完璧にやってくれていました。だから、あそこに飾ってある蘭の花は創業40周年のときにいただいたものですが、6年目を迎えたいまもきれいに咲き続けているんです。

芳恵

そんなに! でも、花に声掛けすると何がどう変わるのでしょうか。

金成

花に命が宿り、気が満ちるのですね。家にしても人が住んでいるところには気が満ち、空き家にしておくとどんどん朽ちていくのと同じですね。

芳恵

ていねいに愛情をもって世話をすると、それだけ長く生き続けるんですね。

金成

私が植木の世話をするにしても、総務の補充はしなければならないので求人を出したのですが、エンジニアばかりの会社で総務要員を募集してもなかなか来てもらえません。そこで思い切って、ハローワークの求人票に「お花の水あげが好きな人」という文言を入れたのです。社内でも賛否両論があったのですが、私は大切にしていることを前面に出すべきだろうと考えました。

芳恵

その作戦の成否は?

金成

求人票を出して1週間もしないうちに、応募がありました。応募の理由をたずねたら「その一言にひかれました」と。

芳恵

すごい! 見事に応募者の心をつかんだのですね。

入社2年半

わずか25歳での独立起業

芳恵

シー・シー・ダブルは今年で46年目ということですが、創業の頃のお話を聞かせていただけますか。

金成

私は大学を卒業して、あるメーカーに入りました。大学での専攻は英米文学で、コンピューターとはまったく関係なかったんです。

芳恵

じゃあ、メーカーに入ったといっても、コンピューター関連のお仕事をしようと思ったわけではないのですか。

金成

そうですね。メーカーといっても、英語の文献のマニュアルづくりや、翻訳のチェックをする部門があったので、そこで仕事をするつもりでした。ところが、あるとき抜擢されて、SEをやることになってしまったのです。

芳恵

そこから、コンピューターと本格的に関わるようになるのですね。

金成

はい。それでその会社には2年半在籍した後に退職し、シー・シー・ダブルを創業しました。

芳恵

大卒後2年半ということは……。

金成

25歳のときですね。

芳恵

とてもお若いときに起業されたわけですが、どんな志を抱いておられたのですか。

金成

シー・シー・ダブルという社名は、CareerCenter for WomenそしてComputer Communication of the Worldの頭文字をとったもので、女性の社会進出が容易ではない時代にあって、時間や場所を問わず働ける機会を創出したい、そしてコンピューターで世界をつなぎたいという思いがありました。

芳恵

1978年の創業ということは、男女雇用機会均等法の施行が86年ですから、それよりもずっと前のお話ですね。

金成

当時、メインフレームやミニコンはありましたが、マイコンやパソコンはまだ登場していない時代でした。コモドールやアップルなどが日本に上陸し、ソフトバンクの孫正義さんやアスキーの西和彦さんが活躍し始めた頃です。

いまよりも女性が活躍しにくい時代でしたが、女性のために何かしたいという思いは強かったですね。

芳恵

まさにIT業界の黎明期ですね。でも、当時25歳の女性経営者って、あまりいらっしゃらなかったのではないですか。

金成

いませんでした。

芳恵

具体的に起業という行動に移せたきっかけとしては、何かあったのですか。

金成

メーカー勤務時に、女性の同僚たちはみんな、このままではやっていけないと悩んでいました。男性社会の中で、少数派である女性のSEやプログラマーは、結婚はできたとしても働きながら出産することなど、とても無理という状況だったのです。

異端児だった私は、それなら自分が先に会社を辞めて、女性が働き続けられる場をつくろうと考えました。そして、そんな折「中堅女子社員教育」のセミナー講師として、人事コンサルタントの梅島みよ先生が会社にいらしたんです。そのセミナーを受講して感銘を受けた私は、当時神楽坂にあった梅島先生のお宅に押しかけて、「独立するので取締役になってください」とお願いしました。

芳恵

それはまた、ずいぶん強引ですね。

金成

結果的には、兼務はできないと断られたのですが、梅島先生は私のことを面白い子だとかわいがってくれて、ずいぶん応援してくださいました。そして、7人の仲間に発起人になってもらい、シー・シー・ダブルの創業にこぎつけたのです。

芳恵

いまでいうITベンチャーですが、経営のすべり出しはどうでしたか。

金成

創業当時は、前職の部長さんや課長さんたちが心配してくれて、ご飯を食べさせてくれたり、仕事を持ってきたりしてくださったんです。そうしたことがなければ、いままでやってこれなかったと思います。

芳恵

新卒で入社してたった2年半の間に、そうした関係性をつくれるというのも驚きです。

金成

最初は見積もりの出し方も手形回収のやり方もわからなかったので、その都度、金融機関の方に教わっているような状態でした。お金が回らなくなると国民金融公庫にしばしば借りに行くのですが、そんな状況だったので支店長が心配してくれて、「借りたら最後まできちんと返すんだよ」なんていう言葉までいただきました(笑)。(つづく)

梅島みよさんの著作と印伝の名刺入れ

金成さんに大きな影響を与え「東京のお母さん」と慕った梅島みよさんの著作『働きざかり女たちのシナリオ』と『女学生みよちゃんが生き抜いた「戦争」』。前者には金成さんの話も載っているそうだ。そして印伝(革細工)の名刺入れは、山梨での2回目の地産地消フォーラムでの記念品。鹿の革に鶴亀の模様がつけられている。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第347回(上)>

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