【達川光男連載#42】契約更改保留後の「バカヤロー」がオーナーの耳に入ってしまった

84年12月の契約更改交渉後に報道陣の前でずっこける筆者

【達川光男 人生珍プレー好プレー(42)】正捕手となって2年目の1984年は4年ぶりのリーグ優勝に、日本シリーズでは宿敵阪急を破っての日本一と最高の一年になりました。ついでに言うと、2015年に他界した妻の仁美と知り合ったのも、この年でした。まあ、この話は別の機会にしましょうかね。

この84年オフには楽しみがありました。契約更改交渉です。入団1年目のオフは年俸240万円の据え置きで、2年目に49試合に出場してアップしてもらったものの360万円。再び49試合に出場した4年目から580万円↓660万円と上がり、正捕手1年目の83年オフに1060万円でサインし、初めて1000万円プレーヤーの仲間入りを果たしました。

狙うは次の大台。これが「億」でないところが昭和でしょ? そうして臨んだ契約更改交渉で、球団側から提示されたのが「1980万円」。ほぼ倍増なので評価としては悪くありませんでしたが、どうにも納得できなくてね。思わず交渉役の球団幹部を前に、こう言ってしまいました。

「区切りの悪い数字っすね。2000万円にしてくださいよ」

球団側の言い分は「こちらは前年からのパーセンテージで上げている。区切りとか、そういうワケにはいかんのじゃ」。こちらも「それは分かりますが、1980万円と2000万円では重みが違います」と食い下がりましたが「物分かりが悪いのう」と却下されて交渉は決裂。保留となりました。

こういうとき、イライラしていてもロクなことはありません。気持ちを切り替えられないまま交渉後の囲み取材に応じ、私はとんでもない失言をしてしまいました。保留した心境を聞かれて「山の上から『バカヤロー』と言ってやりたい」と。この発言が松田耕平オーナーの耳にも入ってしまいましてね。

「ふがいない自分に対して『バカヤロー』と言いまして…」と苦しい釈明をする事態となってしまいましたが、私にとって2000万円は譲れないラインでもありました。レギュラーとなって、これからという時期でしたし、やれる自信もありましたからね。

次の交渉では背広の内ポケットに現金20万円を忍ばせて臨みました。前回と同じ1980万円の提示なら、球団に20万円を支払って2000万円にしてもらおうと思ったのです。そんな熱意が通じたのか初回から20万円の増額を勝ち取り、晴れて「球団初の2000万円捕手」というステータスを得ることができました。

高額年俸を手にして高価な車や時計を買う人もいますが、私は倹約家でね。当時は1年ごとの契約が当たり前で、いつケガをして引退に追い込まれるか分からない。だから基本的に多くもらった分は貯金していました。自分へのご褒美は、せいぜいいいところで食事をするぐらい。結婚前の85年オフに女房をハワイに連れていったことはありましたが、自費でのハワイ旅行は一度きりです。V旅行では何度も行きましたけどね。

プロ野球選手なんて、一寸先は闇。実際に翌85年には古葉竹識監督から衝撃的なことを言われたんです。

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