強打の名門ナインが「体が大きい」と評されたワケ OBも感謝する練習直後の“配慮”

強力打線を伝統とする日大三高(写真は2022年西東京大会)【写真:小林靖】

2011年に全国制覇した吉永健太朗氏は「打線の強さ」で日大三に進学

明確な理由があるからこそ、きつい練習にも前向きに取り組める。日大三高でバッテリーを組んで甲子園優勝を果たした吉永健太朗氏と鈴木貴弘氏が4日、野球育成技術向上プログラム「TURNING POINT」のオンラインイベント「甲子園予備校」に出演。日大三高に進学した理由を明かした。

吉永氏と鈴木氏は2011年夏の甲子園で優勝した。意外にも、どちらの父親も野球経験がないという。吉永氏の両親はバドミントンをしていたが、父親は野球が好きだった。小学校高学年の頃は毎朝5時半に起きて一緒に練習するなど熱心で、吉永氏は「良い意味で厳しく指導してもらったおかげで成長できたと思っています」と語る。

小・中学生で着実に力を伸ばした吉永氏は、複数の高校から声がかかった。その中で選んだのは、野球推薦の話がなかった日大三高。その理由は「甲子園に一番近い」と判断したからだった。

「東京出身なので都内の強豪校を選択肢にしながら、学校数の少ない地方に行った方が甲子園に行ける確率が高いのかもしれないと父親と話し合っていました。最終的に日大三高にしたのは、打撃が強いチームだったからです」

投手だった吉永氏は、援護を受けられる強力な打線が甲子園への近道だと考えた。中学生の頃は優勝まではイメージしていなかったが、甲子園に出場できる高校を選択できるように練習していたという。

2011年夏の甲子園で優勝した日大三バッテリー、吉永健太朗氏(左)と鈴木貴弘氏(現・JR東日本)【写真:本人提供】

鈴木貴弘氏の第一条件は寮生活…通学時間は「もったいない」

鈴木氏は5歳年上の兄の影響で野球を始めた。父親はサッカー経験者で、野球の知識はなかった。小・中学生の時は兄の後を追って同じチームに入っていた。高校の進学先は練習環境を重視し、日大三高がベストだと考えた。

「甲子園を狙えて寮のある学校を第一条件にしていました。それから、現在監督で当時はコーチだった三木(有造)さんに中学生の頃から気にかけてもらいました。自分と同じ捕手だった三木さんの下で学びたいと思いました」

日大三高は鈴木氏の自宅から通える距離にあった。それでも、野球の時間を確保するために寮生活を希望した。「自宅にいると自主練習は限られます。寮なら朝も夜もいつでも自由に練習できます。通学の時間も、もったいないと感じました」と鈴木氏は説明。また、甲子園優勝以上に、入学前から面識のあった三木現監督や、当時の小倉全由監督との出会いが財産になったと力を込める。

「指導者に恵まれました。優しそうに見える小倉監督には厳しさもありますが、理不尽な怒り方はしませんし、フォローも忘れません。選手を思って指導してくれているのを高校生でも感じられました。たとえ甲子園に出られなくても、日大三高に入って良かったと思っています」

吉永氏も指導者や練習環境に感謝する。選手の体が大きくなるように、監督やコーチはグラウンド整備前に食事をとれるように配慮。「練習が終わったらすぐにご飯を食べて、その後にグラウンド整備をしていました。体のことを考えてもらえたので、他の高校から『日大三高の選手は体が大きい』と言われました」と吉永氏は話した。

目標とする甲子園に出場できるかどうかは時の運もある。だが、自分の意志で根拠を持って決めた選択は、後悔しない可能性が高い。(間淳 / Jun Aida)

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