1週間のニューヨーク公演が完売、六代目豊竹呂太夫が語る「文楽に魅せられる理由」

六代目豊竹呂太夫 撮影/渡邉肇

この4月、文楽の大名跡「豊竹若太夫」を57年ぶりに受け継ぐ六代目豊竹呂太夫。十代目豊竹若太夫を祖父に持ち、世襲制ではなく、実力主義の文楽の世界を生き抜いてきた彼の「THE CHANGE」とは。【第1回/全2回】

文楽(※)って難しそうな、辛気くさいもんや、と思うてはるでしょ? 三味線をベンベン弾いてる横で、太夫は大きな声で訳の分からんこと唸ってるし、一つの人形を3人の男が汗だくになって遣うてるし。そやけど、日本語でもあるから、何べんか聴いてるうちに、ところどころ分かってきて、楽しくなってくるはずですわ。いっぺん、見に来てください。(※文楽=人形浄瑠璃。義太夫節を語る太夫、共奏をする三味線弾き、人形を操る人形遣いによる、日本伝統の古典音楽劇)

僕自身は、若いころは文楽が嫌いでした。祖父は十代目豊竹若太夫といって、大きな名前を継いだ太夫だったので、劇場に行くと皆からお菓子や小遣いをもらったりしましたが、実際に舞台を見ると、訳が分からんし、古臭いもんとしか思えなくてね。「こりゃアカンな、お祖父さんの代で滅びゆく芸やな」と、そんな認識しか持てなかったんです。

中一の夏に東京に転居しました。文楽は歌舞伎や能楽と違って世襲制ではありませんから、父は違う道へ進みましたし、僕も受験校に進学して、東大の法学部を目指していましたが、2回落ちました。浪人時代から小説家になりたくてね、大江健三郎や倉橋由美子、庄野潤三なんかの小説ばかり読んで、自分でも書いたりしてました。当時はやったシュールレアリズムにかぶれていたんです。

20歳のときに、祖父が亡くなりました。お通夜の日に、祖父の弟子だった先代の呂太夫兄さんから「君、声も大きいし、文楽やれや」と誘われたんです。考えたこともない話でしたが、「待てよ、大阪に帰って文楽の修業をする経験も、小説を書くネタのひとつになるんじゃないか」と考えたんです。

なんか、めちゃくちゃシュールや! これこそが僕の目指している世界や!

そこで、久しぶりに文楽を見てみたら、「これはすごい!」と衝撃を受けました。相変わらず、太夫が大きな声出して訳分からんこと言うてて、三味線をベンベン弾いて、人形の横に人間の顔があるケッタイさは変わらない。けど、舞台美術も、ものすごくキレイやし、抽象画みたいで色彩感覚が素晴らしい。

訳は分からんけど“なんか、めちゃくちゃシュールや! これこそが僕の目指している世界や!”と、思えたんです。古臭いと思っていた文楽が、新鮮なものに感じられました。

いま、文楽にも外国人のお客さんが増えてますけど、彼らは言葉なんか分からんでも、喜怒哀楽や雰囲気は分かるから、深く感動してくれてます。

海外公演に行ったらすごいですよ! 数年前のことですが、ニューヨークのリンカーンセンターのローズ・シアターが1週間連続ソールドアウトでした。大阪に帰ってきて、あるインフルエンサーに報告したら、「そんなに、あちらには日本人が多いんですか」と言うから、「日本人はほとんどいません。大勢のニューヨーカーでまさにフルハウスでした」とお答えしました(笑)。

まあ、そんな経緯で文楽の世界に入り、太夫になる修業を始めました。最初に弟子入りしたのは、竹本春子太夫。その師匠が海外公演で留守にしてる間は、八代目の竹本綱太夫師匠のところに2か月預けられました。当時、神様みたいな存在だった太夫です。

「こいつは隠れて本ばかり読んでいるし、アカンのちゃうか、いっぺん試してみよか」ということで、東京での初舞台の『勧進帳』の番卒という役のお稽古をしていただくことになりました。長ゼリフがあるんですが、それを一日30回くらい稽古させられるんです。途中で声が出なくなりましたが、稽古は連日でした。

そしたらある日、とてつもなく大きな声が出たんです。じっと聴いていた綱太夫師匠が「おい、おまえ、太夫になれる!」と言いました。腹から声が出たんですわ。自分でもびっくりしました。そこで、僕の人生は決まったのかもしれません。

六代目豊竹呂太夫(とよたけ・ろだゆう)
1947年4月16日生まれ、大阪府出身。’67年、三代目竹本春子太夫に入門。祖父十代目豊竹若太夫の幼名・豊竹英太夫と名乗る。翌年4月、大阪毎日ホールで初舞台。’69年、春子太夫の逝去により竹本越路太夫の門下となる。’17年4月、大阪・国立文楽劇場にて六代目豊竹呂太夫を襲名。‘22年4月、切語り(重要な場を語る太夫に与えられる最高の資格)に昇格。‘24年4月、十一代目豊竹若太夫を襲名する。

© 株式会社双葉社