小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=118

 私としては精一杯の看病であった。それ以上の取り越し苦労よりも、妻が常日頃欲しがっていた住宅を建て、たとえ一年でも自分の家に住ませてやるのが何よりの慰めになるのではあるまいか。そう思うと、私は急いで普請に取りかかった。病人をおいて仕事や建築にばかり熱中している、という非難の声もあったが、そういう煩瑣に取り巻かれながらも、とにかく住宅は完成し、病妻を二年間住ませてやることができたのだった。妻への最大の贈り物であったと思っている。
 今、この家に妻はいない。
「おかえり」の声もなく、ボソッと伸び上がった二階屋が、うつろに静まりかえっている。
 私は車を車庫に入れた。
「オジサン、今日は自動車ぶっつけなかった?」
 大柄で丸顔のお手伝いが朝の挨拶のつもりで、声をかけた。四〇代に入って運転を覚えた私は時たま事故を起こすことがあった。しかし、お手伝いからも、こう言われると嬉しくはない。
「コーヒー沸いてるかい」
「今さっき、若い人に上げましたが、もう冷えたかしら」
 冷えたなら、また沸かせばいいではないかと、小さな不満を覚えるのだ が、それは口に出さず、私はぬるいコーヒーを飲んだ。文句を言えば直ぐ暇を取ってしまうからである。
 ここ数ヵ月間に私はお手伝いを替えた。最初は二十四、五歳の小柄な女で家の掃除、炊事、洗濯と仕事が多すぎるとこぼした。おしゃべりが好きで話し出すと仕事も食事の時間も忘れてしまう。その女は直ぐに出て行った。
 次に雇ったのは、太り気味の娘でたえず荒々しい音を立てて仕事をし、半日ぐらいで片付けると、後は寝転んでマンガの本を読んでいる。ラジオで文通希望の広告を出し、一日に何通もの手紙がきて、それを写真館の見習小僧に見せては喜んでいた。そんな娘でも、居れば飯ぐらいは炊けるから我慢していたが、これも忽ち暇を取った。オジサンはヴィウヴォ(男やもめ)なので、両親が心配するから、というのが理由だった。見習い小僧には、彼女から時どき手紙がくるらしい。

 今のお手伝いは三人目である。四〇がらみの結婚に破れた女で、もの好きにも半黒の子供を養女にしている。その子供はどこか日本人の面影があるから、彼女自身の子供かもしれぬ。年中怒った表情をしている女だ。人並み以上の給金を払い、連れ子まで見てやっているのに、少しは感謝の表情があってもいいではないか、と言いたくなるのだが、やはり私は我慢している。男やもめを世話する女に、私はどこかで愛情を求めているのではないかと、ふと気付いて苦笑することがある。

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