第4子がダウン症と診断。「この子のために父親としてできることは何か」自問した日々【柔道家・鈴木桂治インタビュー】

予定日より少し早く生まれた稀子ちゃん。

アテネ五輪柔道男子100キロ超級金メダリストで、柔道男子日本代表監督を務める鈴木桂治さん(43歳)。妻(41歳)、長女8歳(小学校3年生)、二女7歳(小学校1年生)、長男3歳(年少)、三女・稀子ちゃん(1歳6カ月)の6人家族です。鈴木監督は第4子の稀子(きこ)ちゃんが1歳の誕生日に、ダウン症であることを公表しました。
稀子ちゃんの生まれたときのことや成長の様子について、鈴木監督に聞きました。全2回のインタビューの1回目です。

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妊娠中から赤ちゃんに心臓疾患があると言われていて・・・

家族で白馬岩岳へ。「この時も三女には胃管が入っているので夜中に起きてミルクあげたりと大変でしたが、楽しい思い出です」と鈴木監督。

――稀子ちゃんの妊娠中の経過について教えてください。

鈴木監督(以下敬称略) 妻が妊娠5〜6カ月のころの妊婦健診で受けた超音波検査で、胎児の心臓に異常が見つかりました。後日夫婦で医師からの説明を聞くと「ファロー四徴症(しちょうしょう)」という心臓の疾患があると言われました。
心臓には左右に心房と心室の4つの部屋がありますが、2つの心室の間の壁に穴があいている症状です。そのため、新鮮な酸素が含まれた血と、二酸化炭素や老廃物が含まれた血が混ざってしまい、酸素の供給がうまくいかず、呼吸困難になる症状が出ることがあるそうです。病気の説明とともに、生まれて数カ月後に、心室の壁を閉じる手術をする必要があるだろうと言われました。

心配はありましたが、僕の知り合いで、お子さんが同じような心臓の病気で、生まれてすぐに手術した人がいたので、稀子が生まれる前にいろいろと話を聞いて、心の準備をしていました。

――稀子ちゃんが生まれたときはどんな様子でしたか?

鈴木 予定日の約1カ月前、僕が柔道の国内合宿中に、朝5時ごろに妻から「陣痛が来て生まれそう」と電話がかかってきました。上の子3人の出産にもすべて立ち会っていますし、第4子も立ち会い出産を考えていたので大急ぎで帰宅しました。すると、妻はもう先に1人で産院へ出発したあとでした。僕もすぐに荷物を用意して産院へ向かい、ギリギリ出産に立ち会うことができました。それから3〜4時間後に2540gで第4子の稀子が生まれました。2022年9月のことです。

稀子は生まれてまもなく保育器に入りました。生後数カ月で心臓の手術をすることは出産前から決まっていましたが、産後は産院で数日入院したら、妻と一緒に自宅に帰る予定だったんです。しかし、稀子の呼吸状態などがあまりよくなかったために、生まれた翌日に国立成育医療研究センターのNICUに入院することになりました。

妻はそのまま産院に産後入院し、僕が稀子と一緒に救急車で転院先に行って、必要な手続きをして、とすごくバタバタしていました。その時期は、上の子たち3人のお世話は、近所に住む妻の父に来てもらったり、近所のお友だちの家に預かってもらったりしていました。 稀子はその後1カ月ほど入院することに。その後は、1度退院をして、手術のためにまた1カ月くらい入院をして、という感じでした。

――入院中の面会の様子はどうでしたか?

鈴木 コロナ禍ということもあり、NICUへの面会時間も決まっていて、あまり頻繁に会いに行くことができる状況でもありませんでした。妻は上の子たち3人の世話もあるので、NICUに会いに行くのは基本的には僕。妻が搾乳をした母乳を持って通いました。
面会のときは、着替えをさせたり、おむつを換えたり、様子を見たり、少し声をかけたり、といったことくらいしかできませんでした。あとは、初めは口からミルクを飲むことができなかったので、胃管チューブといって、鼻から胃まで入れられたチューブでミルクを飲ませるように、授乳をしたこともありました。

ただ、赤ちゃんのお世話自体は、上の子どもたちの育児で慣れていましたし、子どもも好きなので、そんなに大変ではなかったです。

生後2週間でダウン症と診断

産まれて初めての稀子ちゃんの笑顔。 「笑った!って写真を撮りました」と鈴木監督。

――いつごろダウン症候群の診断がついたのでしょうか。

鈴木 成育医療研究センターに入院すると、生まれたときに心臓疾患がある子は、体のほかの部分にも影響が出る可能性もあるということで、血液検査や染色体検査を受けました。
稀子は、耳の位置が少し下にあるということ、足指のすき間が開いて広がっている、いわゆるサンダルギャップというダウン症の特徴もあったとのことでした。
そして、稀子が生後2週間のころ、妻と一緒に検査結果を聞いた際に、医師から「ダウン症候群」と診断されました。

――ダウン症候群については知っていましたか?

鈴木 僕は詳しくは知りませんでしたが、妻は、妊娠中に心臓の疾患があると聞いていろいろと調べた中で、ダウン症の可能性があるという情報を見て知っていたようです。
診断時の医師からは、舌が長くよく舌を出すことや、太りやすいなどの特徴があること、医療的ケアが必要になる可能性があること、平均寿命が短く60年くらいになることなどを聞きました。

その日、医師との検査結果の面談は午前中でした。帰宅途中に妻と2人でランチを食べていこうということになり、食べながら、これからどういうふうに育てていけばいいのかとさまざまに話し合いました。

――稀子ちゃんの低月齢のころの育児で大変だったことはどんなことですか?

鈴木 いちばん大変だったのは、生後すぐから手術前までの数カ月、なかなか体重が増えなかったことです。心臓の手術をするには、手術に耐えられる体力のためにある程度の体重が必要だとの説明だったのですが、それがなかなか増えなかったんです。
生後1カ月くらいはNICUに入院し、いったん自宅に帰ってきたんですが、その間の授乳に苦労しました。授乳は、まず口からミルクを与えるけれど、すぐに疲れて飲まなくなってしまうんです。そこで、鼻から胃にチューブを通した胃管チューブから、飲めなかった分を授乳していました。ゆっくり注入するので時間もかかります。3時間おきのその授乳は、やっぱり肉体的にしんどかったです。夜中は僕が強いから僕が担当して、妻は朝以降を担当して、と24時間を分担して授乳していました。

胃管チューブを稀子が手で引っ張って抜けてしまうこともあって、それを入れ直すのも大変で・・・。僕では上手に入れ直せそうになく、その処置はすべて妻がやってくれました。 体重が増えないと心臓の手術ができないので、その心配もあって、この時期は苦労しましたし、精神的にもつらい時期でした。

生後3カ月で心臓の手術、1歳のときにダウン症を公表

生後3カ月、心臓の手術直後の稀子ちゃん。まだ麻酔から覚めていなくて鼻から人口呼吸器をつけていました。

――ファロー四徴症の手術はいつごろ行いましたか?

鈴木 授乳に苦労はしましたが、なんとか手術できるまでに成長してくれ、稀子が生後3カ月のときに手術を受けることになりました。 心室の壁を閉じる手術は4〜5時間ほどかかりました。

手術当日は、朝6時半くらいに病院へ行き、説明を受けて同意書にサインをして、控室で手術が終わるのを待っていました。親の僕たちにできることといえば、ただただ、無事を願うことだけ。医師を信頼してお任せし、祈るような気持ちでひたすら待っていました。

――手術後にはどんな説明がありましたか?

鈴木 ファロー四徴症では子どもよっては何回か手術をすることもあるようなんですが、稀子の場合は幸いにも1回の手術で大丈夫でしょう、とのことでした。その後はまずは月1回の検査に通うことになりました。心臓の手術後、稀子が退院して帰宅したのは生後5カ月のころでした。

手術後の説明の際に、ダウン症候群は周囲の雰囲気や感情に敏感で、感受性が強いということを聞きました。そのことから「自分はまわりの人と違う」と感じ取って、自分の存在に否定的になることもあり、中には自尊心が低下して命を絶ってしまう子もいる、というんです。
僕は、「稀子に絶対にそんな思いはさせない」と誓い、この子のために僕ができることはなんだろう、と考えるようになりました。

――稀子ちゃんのダウン症のことを公表された理由は?

鈴木 4人目の子どもが生まれたことはSNSで発表していたんですが、入院や手術が続いていて、なかなか症状などを言える状況でもなかったんです。1歳のタイミングで治療が一段落して少し落ち着いたこともあり、僕がインスタグラムに稀子のダウン症のことを投稿しました。

公表したら「うちの子もそうなんです」と連絡をたくさんいただきました。SNSを見てくれている人たちだけでなく、身近な後輩の子どももダウン症だと連絡をくれました。彼は「先輩の発信に勇気づけられます」と言ってくれました。
黙っているのはつらさもあったので、公表したことで気持ち的には少し楽になったし、僕の発信を見てくれた人が「自分だけじゃない」と思ってくれたり、たくさんの人に支えてもらうことにつながっているのはありがたいなと思っています。

お話・写真提供/鈴木桂治監督、取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

稀子ちゃんのダウン症について、「上の子たちにはまだ直接は伝えていないんです。ただ妻からは『稀子ちゃんはサポート級に行くことになるよ』とは伝えています」と鈴木監督。
稀子ちゃんはきょうだいたちにとってもかわいがられて育っているそうです。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年3月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

鈴木桂治監督(すずきけいじ)

PROFILE
1980年6月3日生まれ、茨城県出身。柔道家。国士舘大学大学院修士課程修了。2004年アテネオリンピック100kg超級金メダリスト。世界柔道選手権大会は2003年に無差別級、2005年に100kg級を制覇。全日本柔道選手権大会4回優勝。2021年9月には全日本代表チームの監督に就任。国士舘大学体育学部・教授。

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