沈みゆく大和の渦に飲まれ「母の顔が浮かんだ」死を覚悟したとき大爆発が起き…戦艦大和の最期 元乗組員の証言 戦友は海底に眠り

戦艦大和がアメリカ軍に撃沈されて7日で79年です。私たちは3年前の2021年3月、1人の元乗組員の元を訪ねました。当時99歳。大和の最期に立ち会った男性の証言です。

深い海の底に眠る戦艦大和。1945年4月7日、鹿児島県沖で、アメリカ軍機の攻撃を受け沈没しました。乗組員3332人のうち、生き残ったのは、わずか276人でした。

大和の最期を知る男性が和歌山県にいます。西田耕吾 さん。大和から生還した数少ない乗組員の一人です。

和歌山県で小学校の教師をしていた西田さんは、1943年に徴兵され広島県の大竹海兵団に入団。その年の4月に大和に乗艦しました。

西田耕吾 さん
「大きいなと思ったな。大和で死んだら本望やと」

全長263メートル、世界最大の46センチ砲を従えた大和は「世界最強」「不沈艦」と謳われました。西田さんは船首にある菊の紋も磨いたといいます。

西田耕吾 さん
「綱でつないで、菊の紋のところまで行って磨くんよ」

故郷へ向いて家族と別れよ…「お母さん、さよならやぞ」

西田さんが初めて実戦を経験したのは、1944年のレイテ沖海戦でした。当時のことを書き留めたノートには、こう綴られていました。

西田さんの手記より 「大和の艦内放送。『天佑を確信し全軍突撃せよ』。血わき肉おどる。よしやっちゃる」

しかし、日本海軍は大敗。武蔵など戦艦3隻を失いました。戦況はますます悪化し、1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄に上陸しました。その4日後の4月5日。大和に沖縄水上特攻が命じられます。

西田耕吾 さん
「全員、非番のものは、前甲板に集合や。ほんで『いまから沖縄に向けて、突撃する』と」

出撃にあたり、上官からあることを促されました。

西田耕吾 さん
「故郷の方向を向いて、家族と別れよと言われました。黙って(故郷の方を)向いてな。『おかあさん、さよならやぞ』と。それが最後の言葉やな」

そして1945年4月7日…。昼食を終えた西田さんは見張りからの報告に耳を疑いました。

西田耕吾 さん
「(敵機)200機って見張りが言うんや。あぁ、おれも命尽きたなと思った」

大和の最期…運命を共にした戦友「お前ら苦しかったやろう」

西田さんは、大和の底にある配置場所につきました。

西田さんの手記より 「戦闘開始。雨天、曇天のため、主砲は打てない一発も」

数百機のアメリカ軍機が大和に襲い掛かります。

西田さんの手記より 「戦闘中、大和の発令所の射撃盤の破裂。『上甲板二上ガレ』」

大和の沈没が避けられなくなると、「逃げろ」を意味する「上甲板に上がれ」と命令が出ました。西田さんは傾く大和の底から駆け上がり外へ出ました。

西田さんの手記より 「飛行機が機銃掃射しながら空襲。耳と目を押さえ、床に伏す。魚雷数発アタル。左へすごく傾く。速力も出ない。あぁ にげおくれた。沈む方へ飛び込む」

なんとか海に飛び込むも、沈む大和の渦に飲まれました。

西田さんの手記より 「もがけども上へあがってこない。母の顔が浮かぶ」

死を覚悟したとき、大和が爆発。その衝撃で、西田さんは海面に浮上したといいます。

西田耕吾 さん
「重油でな、顔が真っ黒けや。もうあがってきたら、目に顔から真っ黒け」

甲板のかけらにしがみつき救助を待ちました。およそ2時間後、駆逐艦に引き上げられ、助かりました。しかし、乗組員およそ3000人は命を落としました。

西田さんは、大和と運命を共にした戦友を忘れたことはありません。暗い海に眠る友を、早く引き上げてほしいと話します。

西田耕吾 さん
お前ら苦しかったやろうな。おれは上がってきたけどな。なんとか、はよ引き上げてもらうように…」

戦後、大和での体験を語り継いできた西田さん。今を生きる人たちに伝えたいことがあるといいます。

西田耕吾 さん
「若い人たちにな、戦争は、二度としたらあかんということをやっぱり伝えたいな。戦争は二度と、もうしたらあかん」

© 株式会社中国放送