コロッケさんの生きる指針は「あおいくま」…「『ま』の『負けるな』は自分に『負けるな』という戒め」

コロッケさん(C)日刊ゲンダイ

【私が生きるクスリ】

コロッケさん(タレント/64歳)

モノマネの第一人者として誰もが認めるコロッケさん。3月18日には64歳のバースデーパーティーを大々的に開催するなど意気軒高。生きる指針は母親が教えてくれた言葉「あおいくま」と自分で考えた「相手が一番、自分が二番」。

◇ ◇ ◇

僕の生きる指針、基本は母親が教えてくれた「あおいくま」という教えです。あ=「焦るな」、お=「怒るな」、い=「威張るな」、く=「腐るな」、ま=「負けるな」の頭の文字を取って「あおいくま」です。

一番わかりやすい「負けるな」を例にとって言うと「自分に負けるな」ということです。

「ものまね王座決定戦」で初めて優勝するまで、「あ」は「あいつに負けるな」と攻撃的にとらえていました。でも、優勝してみたら勝った時に何も残っていないことに気がついたんです。別に誰かを憎いわけでもないし、これはどういうことなんだと。

それで自分に置き換えてみたわけです。誰かに負けるなではなく、自分に負けるな、なんだなと気がつきました。

「焦るな」も自分に焦るなと言い聞かせる、「怒るな」は自分に怒るなと言い聞かせる、「威張るな」は自分に威張らないように言い聞かせる、「腐るな」は自分に腐るなと言い聞かせるという、自分への戒めの言葉だと思うようになりました。そうすると誰も憎くないし、この野郎とも思わなくてすむ。

言葉の由来を調べてみたら京都の古いお寺にあったらしい「おい悪魔」という教えだとわかりました。それを母親に知り合いが教えてくれて、感動した母親がそれを書き留めて壁に貼ってたんですね。ただ「おい悪魔」では怖いから(笑)、ひらがなにして並べ替え「あおいくま」にした。家族みんながテレビを見る部屋に貼ってあったので、僕は小さい声でいつも「あおいくま」を呟きながら育ちました。

僕が作ったことわざがあります。「相手が一番、自分が二番」です。

どういう意味かというと、人は自分が一番だと思うと、わがままになったり、我を通したり、文句を言ったりするようになります。例えば、相手に言わなければならないことがある時に、「気づけよ」とか「何でわかんないんだよ、さっき言ったろ」という言い方になる。これは自分が一番だと思っている人の言い方です。

でも、相手が一番だと思ったら、そんな言い方はしません。「さっきのはわかりにくかった?」とかね。わかるにはどうしたらいいだろうと考えていると、言い方が変わってきます。

具体的な話をすると家の中で新聞を取りに行くとします。奥さんに「新聞は?」という。それに対して奥さんは「自分で取ってきてよ、私は食事を作っているし、洗濯も掃除もやらないといけないのに」となって、変な空気が流れる。最悪は喧嘩です。

でも、「新聞は」という前に奥さんは忙しそうだから、自分で取りに行こうとなったら、「新聞は?」なんて言いませんからね。喧嘩にはならない。相手を一番に考えたら自然とそういう流れになるはずです。

今の世の中は異様なほど自分が一番だと考えている人が増えている。一番だと思っている人の集まりになっている気がします。そのために余計なことや軋轢が起きて、果ては犯罪にまでなっていくんです。

テレビ、いろんなメディア、例えばドラマでもいいです。正直、その中での表現が自分が一番になっている。目上の人が言ったことに対して「マジで」とか「スゲー」とか、ため口で答える。本来なら「そうなんですか」「本当なんですか」でしょ。ため口なんかで言われたら、「エッ?」と思う。カチンとくる。僕らが若い時にそんな口をきいたら、メチャクチャ怒られたものです。

テレビでタレント同士でやっているのはいいんです。笑ってられますから。でも、普通の社会でそれをやったらただの嫌がらせだし、イジメになる時もある。それでも注意したら「だってテレビでやってるもん」と人のせいにしておしまいです。こういうのはすべて自分が一番だと思っているからだと思います。

僕の仕事でいえば、自分のモノマネを見ていただきたいか、わからないならいいよ、のどちらかです。相手が一番と考えれば、見てわからないなら見ていただくためにどうすればいいかを考えると思います。僕はそれをずっとやってきたつもりです。もし自分が一番と思ったら、わかんなきゃいいよ、でおしまい。でも、そこで投げ出しちゃダメなんです。僕の中ではアウト。

ですから、後輩にもわからないなら面白くするなり、わかるように説明するように話します。自分本位で歌って心地よく歌われたら、見てる方が心地悪いんだよと話しています。

寄り添うことも大切ですね。相手が一番だと思うと人に寄り添うことができます。僕らは人と会う時には予習復習をしました。ところが、今の若者はそれをやらず、何もしないでうまくいく方法がないかを考える。それではダメです。

■相手が一番なら寄り添える

みなさん自分が話していることを聞いてほしいんです。もし自分が一番なら相手に寄り添うことはできませんが、相手が一番なら寄り添うことができる。話を聞いてあげることができます。

人は誰でも知らないことが多いものです。知らなくても人と会う時には相手のことを考えて勉強してから出かける。正直に「調べてきました」というと「俺に興味を持ってるんだ」「そういう気持ちできたんだ」って思ってくれる。絶対に悪循環になりません。僕の場合はとくに目上の人とお会いすることが多いのでこれは大切です。

何年生まれか、その時代にはやっていたのは何か。例えば「ダッコちゃんが流行していたんですよね」というだけで会話がはずみ、相手は話に食いついてきますよ。冗談半分で「戦争に行かれたんですか」と聞く。「そんな年じゃないよ」と怒られてもいいじゃないですか。話のとっかかりができます。

「不適切にもほどがある!」がウケているワケ

最近、今という時代の難しさをひしひしと感じます。とくに年下世代との付き合い方です。

例えば「おいしいから食べろよ」と言ったらパワハラです。飲みに誘って無理についてきたらパワハラです。だから「〇〇に行くけど」とは誘わないですよ。「どこに行くんですか」と聞いてきたら「〇〇に行ってるよ」としか言わないようにしています。「おいで」と言ったら「コロッケさんに誘われたから行かなきゃいけない」となってパワハラになる。

髪を切ったねと言ったらセクハラ。「いつからそう見てたんですか」なんて言われて。だから僕はイベントなんかでも女性とはあまり話をしないようにしています。「狙ってんの?」なんて言われるのも嫌だし。そういう悪知恵みたいな空気になることがとにかく多いんです。

でも、そんな、ある意味ぬるま湯のような雰囲気の時代は4、5年もするとグチャグチャになっていくと思います。人を叱らない、叱ったら文句を言う。それでは社会が成り立たないことを若い世代も気がつく。後輩に「そんな言い方をされる覚えはありません」なんて言われた瞬間に、「アッ」となると思う。ドラマの「不適切にもほどがある!」が受けているのはそういうことだと思います。

健康法を聞かれることもあります。でも、健康だと調べたり気をつけたりしないでしょ。不健康で、例えば膝にきて、どうしたんだろうと調べてみる。普段から階段の上り下りだけでも気にするようになります。だから僕は正直、不健康でいいと思っています。完璧じゃなくていい。

■自分の「餌」を探す

心がけていることは自分の「餌」を探すことです。餌は楽しみ。それがむしろ健康法です。

今は韓流ドラマとアクション映画にハマってます。それを一人で見るのが一番の楽しみです。誰かが横にいると、わからないことを聞かれたりするじゃないですか。それがイヤですね。一人で没頭したい。iPadにいつも30本くらい作品を入れていて、移動中とか夜中に見るようにしています。しかも、ドラマや映画といった自分が好きな餌を食べ過ぎない程度にする。それがもっとも長続きする健康法です。

そもそも食べ物とか健康に気をつけていたら今みたいに太っていませんからね。でも、太ってからメチャメチャ受けるようになったんです。郷ひろみさんの「2億4千万の瞳」を歌うじゃないですか。郷さんとは体形が真逆だから、見ている方がそれだけで突っ込んでくる。太ってからの方が受けて得しています。

お金については、家族もスタッフも暮らしていくために稼がなきゃいけない。でも、貯めるよりみんなで使ったり、好きなものを食べようと言っています。

一番大事なのはお客さまに喜んでいただくために衣装とかカツラ、音響照明セットなどにお金をかけることです。よくあるお笑いとかのステージではなく、普通のアーティストがそのままステージをやれるくらいの設備にして、大きなスクリーンを使っている。五木ひろしさんの「五木ロボット」なんて3階席の一番後ろからでもドアップで見ることができます。

これからやっていきたいことは小林幸子さんとやっている「幸せプロジェクト」です。農業、文化からあらゆる芸能の後押しができるフェスティバル、イベントをやっていきたい。自分が役に立てること、後輩たちもついてきて一緒にやれることを、未来のエンタメのためにやりたいと思っています。

(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ)

© 株式会社日刊現代