〝最後の近鉄戦士〟坂口智隆の引退試合にはサプライズで近藤一樹が花束を…【平成球界裏面史】

内川(左)と坂口智隆(2022年10月)

【平成裏面史 近鉄編47】平成14年(2002年)から平成の球界を駆け抜けてきた元近鉄、オリックス、ヤクルトの坂口智隆。平成24年(2012年)の右肩脱臼、令和元年(2019年)の左手親指の骨折はその現役生活に大きな影響を与えた。

近鉄では将来を嘱望された若手として、厳しくも自由な風土で選手としての土台を築いた。

平成16年(2004年)のオリックスと近鉄の球団合併では、不安を抱えたままオリックスバファローズに移籍。シーズン最終戦で当時の梨田昌孝監督から「お前たちが今、付けている背番号はすべて近鉄バファローズの永久欠番だ」と送り出され、27番の坂口で近鉄を卒業した。

中堅・大村直之、左翼・タフィー・ローズ、右翼・礒部公一という外野陣にあって「競争できるその舞台にも上がれるような状況ではなかった」という若手が、オリックスでバファローズでは盤石のレギュラーという立場を掴んだ。

ゴールデングラブ賞を4年連続(08~11年)で受賞し、平成23年(2011年)には最多安打のタイトルも獲得し球界を代表する選手に成長していた。

そして最後のユニホームとなるヤクルトではベテランとして存在感を示した。「僕はどこに行こうが野球は野球やと思ってます。試合に出るためならどこだって守るしね。レギュラーを取って試合に出るという気持ちでずっとやってきた」という信念の元、野球に関しては絶対に手を抜かなかった。

令和2年(2020年)10月19日の阪神戦(甲子園)では史上129人目の通算1500安打を達成。このシーズンは114試合に出場し2年ぶりの規定打席に到達した。ただ、打撃のスタイルが変わっていることは明白だった。自己最多の9本塁打を記録した一方、打率は2割4分6厘。これも左手親指の骨折の影響だった。

令和3年(2021年)は開幕スタメンを勝ち取ったが、3月28日シーズン3戦目で負傷離脱。二軍での調整を経てオリンピックのペナントレース中断期間のエキシビションマッチで打率4割3分8厘と結果を残し健在ぶりをピールしたが、9月に死球禍で負傷するなど、25試合の出場にとどまった。

ただ、プロ入り19年目だったこのシーズンに初めてリーグ優勝を経験した。その相手は古巣のオリックスだったことも何かの縁だ。シリーズ第2戦では9番・右翼で先発出場。宮城大弥から安打も記録した。少年時代から通った神戸のほっともっとフィールドで試合が開催されたことも奇跡的な縁だった。

ヤクルトは20年ぶりの日本一となった。それでも中心選手として活躍したわけではないという思いが心の片隅にあった。令和4年(2022年)は二軍で春季キャンプをスタート。沖縄・浦添ではなく、まだ寒い宮崎・西都で若手と汗を流した。

シーズンでは6月9日のオリックス戦で初の一軍に昇格。6番・左翼でスタメン出場し二塁打を記録するなど活躍をみせた。4番・村上宗隆に続く5番打者としての起用もあったが徐々に成績を落とし、8月8日に登録抹消となった。

「僕の野球の最後の日が来るまで『うまくなりたい』と思いながら練習するね」。心は決まっていた。自分の存在のために若手のチャンスを奪っていないか。そんな気持ちが脳裏をよぎった。9月29日、坂口は引退を表明した。シーズン最終戦となったDeNA戦に2番・右翼でスタメン出場し、第1打席に現役最後の安打となる左前安打を記録した。試合後の引退セレモニーには、サプライズで元近鉄の同僚でもある近藤一樹から花束を贈呈された。

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