40年間無職女性の壮絶人生 引きこもりから九九学び直し34歳で高校卒業 家族と和解…初めての労働

“40年間無職”のライフストーリーを明かした難波ふみさん【写真:ENCOUNT編集部】

疲れ切った母から包丁を向けられて父からも激しく…苦難を重ねたライフストーリー明かす

生まれてからこれまで40年間一度も働いたことがない無職女性が、作家デビューを果たした。いじめ、不登校、父親から暴力虐待を受け、母親からは「産まなきゃよかった」とさげすまれ……。長い引きこもり生活を送っていたが、精神病の治療を続けながら、徐々に家族との関係を修復。九九すらしっかり覚えていなかったが、一念発起して高校に入学し、34歳で卒業を果たした。自身の壮絶な人生をつづった著作でデビューし、古書店勤務で初めて働く「楽しさ」を知った。一方で、「中年の引きこもり」「長期間の無職」への世間の風当たりは厳しいものがある。「当事者は葛藤してどうにか外に出るきっかけをつかもうと、部屋の中で独り悩んでいます。想像してみてもらいたいです」。前を向いて少しずつ歩く、41歳の著者・難波ふみさんの半生に迫った。(取材・文=吉原知也)

姉と兄と両親の5人家族。難波さんの人生が早くも暗転してしまったのは小学校1年生の時だった。引っ越しで転校したが、恥ずかしがり屋な性格のため、登校初日の自己紹介でうまく話せず、号泣。クラスメートから悪口を言われるようになり、次第に教室に行くことができなくなった。

不登校を巡り、両親と対立。学校に行かせたい母親とバトルの日々を送った。不登校の子どもの対応に苦悩し、疲れ切った母から包丁を向けられ、「一緒に死のうか?」と言われたこともあった。10歳の時、父から激しく叱責された。「学校に行くと言え!」と何度も殴られた。痛みに耐えるのに必死だったという。両親はなんとかしようとフリースクールや塾に通わせたが、なかなか長続きしなかった。「学校に行っていないという罪悪感はずっとありました。昼間に私服で外に出ていると、『あの子、もしかして不登校?』と後ろ指をさされるようで、どんどん外に出られなくなっていきました」と振り返る。

自分の部屋が安心できる“城”になった。「家族と一緒に住んでいるのに、私だけが1人暮らしをしているようでした。誰にも入ってほしくない。『部屋』を守らなくては。ずっとそればかり考えていました」。極度の潔癖になり、アルコール消毒が欠かせなくなった。高校受験はしなかった。友達はいなく、成人式に行くこともなかった。

心の不安定はずっと気になっていたが、20代半ばの頃、心療内科を受診することになった。「強迫性障害」との診断を受け、投薬治療が始まった。のちに「気分障害」の診断も受けており、現在も適切な治療を続けている。

だが、“事件”が起きてしまう。28歳の頃、家計のひっ迫により、家族は転居する流れになった。難波さんは大事な大事な「自分の部屋」が失われる恐怖にさいなまれ、錯乱。ある夜、長年たまっていたものが爆発するように暴れ、父にありったけの暴力をぶつけた。止めに入った姉を殴りつけた。警察が出動し、救急車で病院に運ばれた。当時の記憶は抜け落ちているという。父はローンを払い切れなくなり、自己破産した。

卒業生代表として卒業式出席の栄誉、34歳で高校を卒業

30歳を過ぎて、大きな転機が訪れる。近所にショッピングモールがオープンすることを聞き、「バイトしてみようかな」とふいに思い立った。だが、現実を思い知らされる。初めて書いた履歴書。中卒、職歴なし。落ちてしまった。ここで、急にひらめいた。「あっ、学校に行ってみようかな」。こうして、定時制高校を受験し、晴れて31歳で高校生になった。

入学式で気付いたのは、「大人は自分だけ」ということだ。ロリータ風ファッションで登校したら、クラスメートの注目を集めた。「15、16歳の同級生たちは、母子家庭、父子家庭、フィリピンやタイのルーツを持つ子もいました」。初めての文化祭は思いのほか楽しかった。勉強も頑張り、苦手な算数に挑戦。九九から学び直した。商業系の学校だったためビジネスに関しても勉学を深めた。

思春期世代との友人関係、学校の先生との関わり合いから学ぶことも多かった。「私が30歳を過ぎた大人だったからこそ楽しめた部分も多かったと思います。それに、授業もそうですが、人間関係もたくさん勉強させていただきました」と笑顔を見せる。優秀な成績や生活態度が認められ、卒業生代表として卒業式に出席。34歳で高校を卒業した。

人生で1つ解決するべき課題があった。家族だ。

年齢を重ね、高校に通い始めるなど、少しずつ外に出て社会と関わるようになった難波さん。両親、特に不和が激しかった父との雪解けも進んでいった。当時70代中盤で退職していた父は、高校と自宅の最寄り駅までの送り迎えをずっとやってくれた。帰り道はその日学校で起きた出来事をあれこれ話した。テストで100点を取れたことを報告すると、「すごいじゃない!」とわがことのように褒めてくれた。もう父に対する恐怖はなくなっていた。

心配性で過保護なお母さんは73歳になり、不器用なお父さんは83歳になった。昨年1月、父は脳梗塞で倒れ、認知症が進み、現在は要介護4の認定を受け、施設で暮らしている。リハビリ中に父が記していた日記を見る機会があった。「今日は家族が来てくれた。でも何を話せばいいのかわからなかった」と書いてあった。難波さんは「なんだ、お父さんも同じだったんだ」と、長年の疑問が解消するような思いに至ったという。

暴力の方法で接することは避けてほしかった。今振り返ると、両親は娘の不登校に悩み、混乱してしまった側面もあるのではないかと考えている。「両親は不登校の子をどうしたらいいのか分からなかったのだと思います。父との関係について言うと、私も父も年を重ねて丸くなったことも大きいと思います。父とは和解し、しっかりとコミュニケーションを取れることができるようになりました。エンジニアとして働いた父は家計を支えようと必死に働いていました。その点は私が小さい頃からずっと感謝しています」と真剣なまなざしで語った。

文学賞に自ら応募で人生変わる…初めての給料で買ったものは?

無事に目標の高校を卒業したが、それでもバイトの応募は落ちてしまった。医師からは「今すぐは無理だね」と就労不可の判断がなされた。

困ってしまったが、自分の道をしっかり自分で見つけることになる。自発的に本を読みだしたのは14歳の時。その後、ホラー作家の平山夢明にハマり、もともと好きだった「文章」にもっと興味が沸いてきた。家でとっている新聞の募集記事で、新設の文学賞の存在を知り、応募してみた。テーマは自分の半生だ。「書かなきゃいけない」という使命感にも駆られ、丹念に執筆。見事入賞を果たし、今回、著書『気がつけば40年間無職だった。もしくは潔癖ひきこもり女子の極私的物語』(古書みつけ刊)で作家デビューを飾った。

今年3月上旬、出版社が運営する古書店で、“初めての仕事”を経験した。店頭に立ち、店番をこなし、自分で自分の本を売った。初めての労働。「楽しくてうれしくて。初日だけで10冊ぐらい売れたんですよ!」と、無邪気な笑顔を浮かべる。ちなみに初めての給料で買ったのは、「化粧品です。人前に出るのできれいになりたいので」。

一方で、中年の引きこもりは社会問題化している。高齢の親が未就労の子を支える状況で生活に困窮する「8050問題」は深刻の一途をたどっている。「無職」に対する批判的な世間の目があることも確かだ。

難波さんはどう考えているのか。まず、引きこもりの当事者として「なかなか見えにくい、伝わりにくいですが、実は独りで模索しているんです。外に出ないといけない、と葛藤を抱えているんです。今は引きこもりのサポート体制が整ってきています。まずは、自分の家族や周りの人に相談できれば。誰かに話すことが最初のステップにつながると思っています。1人でうつうつと抱え込む状況を少しでも改善していくことも大事かなと思います」と、自身の経験をまじえて語る。

そして、社会へのメッセージ。「もし自分に置き換えたら、ということを想像してほしいです。引きこもりになってしまうことにはさまざまな複雑な事情があります。『あの家は引きこもり』『あの人は無職』とひと言で片付けられがちですが、そんなに簡単な問題ではありません。視点を変えるのはどうでしょう。未開の地と言いますか、潜在的な労働力でもあると思います。引きこもりや無職の人たちと手を携えて、どうやったらみんなで一緒に働いていけるのか。もっと建設的に考えていくことができればいいなと思います」と力を込める。

今回の1冊目の出版を記念に終わらせたくない。「もしできるのなら、文章を書いていければ。まだ私の肩書は何もないですが、将来、『作家』と言っていただけるようになりたいです」と目を輝かせた。

□難波ふみ(なんば・ふみ)1983年、神奈川県生まれ、千葉県育ち。幼少期に父から受けた暴力がトラウマとなり、さまざまな精神障害を引き起こす。第1回「気がつけば○○ノンフィクション賞」に応募、最終選考まで残り、作家デビューにつながった。40歳を過ぎて中古書店・古書みつけで働き、初めてのお給料をもらう。吉原知也

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