Netflix版『三体』が人類に問いかける重要なメッセージとは? 賛否の声飛び交う理由を考察

近年、中国、韓国など、アジア圏から発信されるSF小説が、世界的な人気を得ている。そのなかでもブームの火付け役となり、最大のヒット作となったのが劉慈欣(りゅう・じきん)の『三体』だ。奇想天外かつスケールの大きな内容は、SF最大の賞といわれる「ヒューゴー賞」をアジア系作家として初めて受賞し、ジェームズ・キャメロンやバラク・オバマ、マーク・ザッカーバーグなど、アメリカの各分野の第一人者からの絶賛を浴びている。

そんな『三体』は、これまでもアニメやドラマ作品として映像化されてきたが、この度Netflix配信ドラマというかたちで、新たな映像化作品としてリリースされることとなった。1エピソードあたり約2000万ドルという、巨額の製作費がかけられたことや、『ゲーム・オブ・スローンズ』のデヴィッド・ベニオフ、D・B・ワイスが企画・製作総指揮を務めたことでも話題となっている。

そんな、Netflix版『三体』の内容は、いったいどうだったのだろうか。ここでは、賛否の声が飛び交うことになった理由や、このドラマ版が真に描こうとしたものが何だったのかを考えていきたい。

『三体』の大筋で描かれるのは、地球に住む人類と、謎の存在「三体人」とのコンタクトとコミュニケーション、そして対立関係である。そこに近年の科学のトピックや、ゲームなどのカルチャー、中国の歴史、現代社会の実相などが絡まり、総合的な物語として完成しているのだ。

宇宙の彼方で複数の恒星の不可思議な軌道がかたちづくってきた壮大な歴史や、膨大な数の人間を利用した「人列コンピューター」なる大掛かりな仕掛け、数世代をかけた異星人との頭脳バトルと開発競争など、飛び出してくる発想がいちいち規格外なところも大きな魅力だといえる。

ドラマ版である本シリーズでは、まず中国の「文化大革命」時代に起こった、知識人の迫害による悲劇の描写を冒頭に配置して、発端となる歴史的エピソードをより印象的に映し出す。科学者である父親をリンチされ殺された女性、葉文潔(イエ・ウェンジエ)は、政府や人間そのものに対する大きな不信感をおぼえ、科学の知識を活かしながら、人類よりも異星の文明に救いを見出していく。

本シリーズが最も原作と異なるのは、キャスティングにおける人種の変更やキャラクターの再創造である。葉文潔は、現在の姿をロザリンド・チャオ、若かりし日の姿をジーン・ツェンが演じていて妥当だといえるが、他の主要キャラクターの多くは整理されて、イギリス人という設定に変えられている。

このように、アメリカやヨーロッパの国々で有色人種の役柄を白人に変更するのは、「ホワイト・ウォッシュ」と呼ばれ、人種差別や雇用の格差の観点から批判の的になる場合がある。もちろん、それだけでも物議を醸す要素があるのだが、これがとりわけ問題だと感じるのは、『三体』の舞台や登場人物の国籍、出身が中国であるということそれ自体に、大きな意味があったと思えるからだ。

中国のSFが近年、隆盛を極めたことは前述した通りだが、それ以外にも経済や学問、文化、軍事力など、さまざまな分野で中国は日に日に存在感を増し、世界のパワーバランスを左右する立場へと成長してきている。だからこそ、人類の未来を考えるSF小説において、中国が大きな役割を果たすという内容に説得力が生まれているのである。そういう時代が到来していることも含め、われわれは『三体』という作品を、脅威とも羨望ともつかぬ感情で“現象”として体感したのではないか。それは、アメリカやヨーロッパでも同じだったはずだ。

本シリーズがイギリスをメインの舞台とし、人類の命運を白人たちを中心とする文化圏に委ね直したことは、作品の持つ勢いや時事性をスポイルし、全体の印象を、これまでのようなありふれたSF大作に引き戻してしまっている感がある。もちろん、世界の市場を対象としたマーケティングの観点からの事情もあるのだろうが、そうあらねばならないという発想自体が旧世代的、旧世界的な価値観に縛られているのではないか。そういう意味において、本シリーズの設定部分は残念なものだと言わざるを得ないだろう。

しかし一方で、複数の主人公による、それぞれのエピソードを配置した原作に比べ、「オックスフォード・ファイブ」なる個性的な同窓の科学者たちが、さまざまな問題に対処するというストーリーの再構成は、ドラマ作品として秀逸な脚色だといえる。前述したデヴィッド・ベニオフ、D・B・ワイスに加え、TVドラマのプロデューサー、アレクサンダー・ウーらは、評価の高い『三体』の物語を果敢に書き換え、この「オックスフォード・ファイブ」を中心とした、エモーショナルな群像劇に蘇らせているのだ。

その結果として、本シリーズは前半では、もともとの小説の発想の奇抜さや謎の数々に魅了されるが、後半ではそれぞれのキャラクターが積み重ねてきた感情描写の数々によって、登場人物に感情移入させながら視聴者を引っ張っていく内容となっている。Netflix版『三体』が、このシーズン1以降も製作されるかは、現時点で決定していないが、ラストシーンにおける登場人物たちによる、人類を代表した意地と決意は、さまざまな感情を経て、観る者の胸を熱くさせるものとなっている。

また、原作の描写が分かりやすく映像化されたことで、人によっては難解な部分があったと思われる原作の興味深い内容が、多くの視聴者に理解しやすいものとして提供されたことも、無視できない点だ。書籍を読むような能動的な習慣が廃れてきているなか、『三体』に含まれた奇想天外な発想の数々が、同時代の多くの人に届けられたことは、本シリーズの手柄だといえよう。

人類と、より高度な文明を持つ生物との関係が描かれた本シリーズで考えさせられるのは、われわれが、いかに“人間中心”の考えに染まっているのかという点だ。中国で「文化大革命」の時代に存在した悲劇は、全体主義に陥った、さまざまな国の歴史にも呼応していて、同様の犯罪的な行為は世界中で現在も根強く継続されているといえる。それは、「人類は自分たち自身で問題を解決できない」という、本シリーズにおける言葉を裏付けている。

環境問題、差別問題、戦争や核武装による恫喝など、人類は乗り越えなければならない自滅への道を、依然として歩み続けているように感じられる。それは、人類という種自体に、致命的な欠陥があることを指し示しているのかもしれない。より文明の進んだ存在からすれば、おそろしく野蛮で危険な者たちだと映っても仕方がないところがある。

だがその一方で、人類に善良な思想や優しい感情が存在するのも確かなことだ。本シリーズに描かれた「三体問題」を考えることは、浮き彫りになった人類の課題に対して、そのようなポジティブな面を発揮しながら、力を合わせて問題を乗り越えていかなければならないタイミングがやってきていることを認識することと同義だといえる。

その意味において、本シリーズはSFというかたちを取りながら、人類という枠で世界の問題をとらえ、あらゆる方策で対処する必要があることを知らせる、重要なメッセージを伝えていることが理解できるのである。そう、『三体』がわれわれ人類に語りかけようとする最大の“問い”は、すでに多くの点で本シリーズが描ききっているのである。それを真摯に受け取り、それぞれの立場で人類の未来を少しでも良い方向へと動かすことができるかどうかは、視聴者たち一人ひとりの姿勢に委ねられているはずなのだ。
(文=小野寺系(k.onodera))

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