『オッペンハイマー』は科学者版『アウトレイジ』だ 込められたノーランの反戦への想い

「原爆の父」と呼ばれた物理学者、オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)。本作『オッペンハイマー』(2024年)は、そんな男の人生を描くのだが……これは伝記映画であると同時に、科学者版の『アウトレイジ』(2010年)でもある。

本作はとにかく情報量が多い。単純に登場人物が多く、各々に利害関係があるからだ。人物の相関図を作ったら、「友情」「敵対」「利用」「裏切り」などの矢印が入り乱れて大変なことになるだろう。時系列のシャッフルも(時代ごとに映像のトーンを変えることで、比較的、分かりやすくなってはいるが)観客を困惑させるはずだ。さらにテンポも早く、次から次へと事件が起きる。NHKの大河ドラマ全話を再構成して3時間にまとめたようだ。

そんな混沌としたストーリーだが、クリストファー・ノーラン監督はスリリングなサスペンスとして、そして一本の筋がある物語として語り切っている。

本作は、主に3本の物語が同時並行で走る。第二次世界大戦中の、オッペンハイマーが原爆を開発する物語を基軸に、冷戦下で彼がソ連のスパイ疑惑を追及される聴聞会と、彼と不仲であったストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)の公聴会だ。オッペンハイマーが原爆を開発する中で知り合った者たち、友人・同志だと思った者たちが、聴聞会パートで嘘の証言をし、曖昧な態度を取る。オッペンハイマーを支持する者もいるが、徐々に彼は「ソ連のスパイ」として追い詰められていく。一方のストローズは着実に勝利へと向かっていく。無実の人間が追い詰められ、陰謀を張り巡らせた人間が逃げおおせようとする。ここはまさに時を超えた法廷サスペンスだ。

しかし、こうしたサスペンスパートで魅せつつ、映画はオッペンハイマーがやったこと、すなわち「彼が発明した原爆で、世界はどう変わったか?」へ結実していく。冒頭に引用されるギリシア神話のプロメテウスの逸話、「全能の神ゼウスに逆らって、人間に火を与えたプロメテウスは、山に貼りつけられて永遠に責め苦を受けた」。これは、そのまま本作で描かれるオッペンハイマーの人生の総括でもある。

本作では、原爆開発後のオッペンハイマーの苦悩と、周囲との断絶が描かれる。すでに各所で言われているように、この映画には原爆投下の直接的なシーンは存在しない(映画監督のスパイク・リーもこの点を問題視していた。個人的にはあっても良かったと思う)。しかし原爆を落とすまでの「すでに日本は限界であり、そもそも原爆を落とす必要があるのか?」といった議論や、「ここで原爆を日本に落とすのは実験でもある」といった、現在の視点から見ると醜悪なやり取りも赤裸々に描かれている。そして、こうした原爆の使用法にまつわる議論になると、オッペンハイマーは主導権を失っていくのだ。

さらに原爆投下成功の祝賀会では、オッペンハイマーは悪夢のような幻覚を見る。会に集まって熱狂する人々は狂気じみていて、ほとんどホラー映画の暴徒のようだ。そしてオッペンハイマーは、自分がプロメテウスだと自覚していくのである。「原爆の父」なる異名は、物語が進むにつれて虚しさばかりが募っていく。トルーマン大統領とのやり取りも強烈だが、個人的に最も印象的だったのは、原爆の使用法について軍の人間に説明するくだりである。熱心に原爆について説明するオッペンハイマーが、軍人たちに「あとはこっちでやるので、もう結構です」とあしらわれてしまう。このシーンは短いが強烈だ。

そして、終幕である。時系列はシャッフルされているが、物語のメッセージ性は、最後に結実する。

オッペンハイマーは原爆を作った。彼は、人類に自らを焼き尽くす力を与えてしまったのだ。しかし核開発の激化は止められなかった。さらに「赦し」や「同情」すら入り込む余地がない、『アウトレイジ』的な暗闘によって、遂に名声も地位も、友情も信頼も、連鎖反応を起こして崩れ去ってしまう。

世界は変わり、二度と元の形に戻らない。世界を変えた発明は、それを成した人間の苦悩や後悔などを無視して、誰かに雑に使われる。悲しみ、怒り、破滅への可能性は永遠にそこにある。そんな世界に観客、つまり私たちは生きているのだと突きつけて、この映画は幕を閉じる。残るのは強烈な無力感と不安、やるせなさだ。しかし同時に「では、どうこの世界で生きていくべきなのか?」という疑問も生まれる。その答えは人それぞれだろうが、恐らく多くの人にとっては一つだろう。人間が人間を滅ぼすようなことはあってはならない、と。

クリストファー・ノーランの高い技術と、彼なりの人間へのまなざし、そして真摯な反戦への想いが本作には込められている。本作は、今や巨匠となった彼の現時点での集大成と言ってもいい力作だ。
(文=加藤よしき)

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