『光る君へ』藤原宣孝・佐々木蔵之介の御嵩詣“衣装センス”と国司を訴える平民の時代性

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

前回第13回の『光る君へ』、ついに藤原兼家(段田安則さん)の嫡男・道隆(井浦新さん)の娘である定子が一条天皇に入内するシーンが出てきました。ドラマでは定子役の高畑充希さんがいくら演技派とはいえ、一条天皇役の柊木陽太さんとの実年齢差は約20歳だそうで、なかなかに「おねショタ」(お姉さんと少年カップル)系の映像になっていましたね……。史実の定子は14歳で11歳の一条天皇に入内したので、年齢差は3歳程度。10代前半での3歳はそこそこの年齢差ではありますが、2人が熱愛関係に発展したのは自然の流れだったのでしょう。現代から見ればかなり血が近い夫婦ではありますが、これも当時ではまったく気にされないことでした。

今回は本編を見ていて、気になったことをいくつかお話したいと思います。

まひろ(紫式部・吉高由里子さん)が将来結婚することになる藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が、派手な黄色の上着のまま、藤原為時(岸谷五朗さん)の家に御嵩詣(みたけもうで)の土産を届けに来ましたよね。ドラマの衣装はおそらく僧侶用の衣装なのかな……とは思いますが、宣孝があまりに悪目立ちする格好で御嵩詣をしたことを、清少納言(ドラマではファーストサマーウイカさん)が『枕草子』の中であけすけにディスっているのは有名な話なのですね。

清少納言は「右衛門の佐(すけ)宣孝といひける人」が「紫のいと濃き指貫(さしぬき)、白き襖(あお/あせ)、山吹のいみじうおどろおどろしき」姿で詣でたと小馬鹿にしているのです。簡単にいうと指貫とは装束のズボンです。白い装束に山吹色のたいそう目立つ上着を羽織って……というような意味です。

もともと奈良県吉野の「金峯山寺」の御嵩詣とは当時、修験道の聖地を訪問する行為ですから、信心深い人ならば純白の浄衣(じょうえ)をまとって行くべきところなのに、藤原宣孝は自身と子息の出世栄達を祈願したいという欲にまかせ、少しでも他の参拝客より目立とうとして、息子にも同様の派手な格好をさせていたのですが、その必死さが清少納言には愚行に見えてしまったようですね。

紫式部はなんだかんだいって宣孝のことを愛していたと筆者には思えるので(2人の夫婦仲はよくなかったと考える学者もいるのですが)、清少納言の『枕草子』を読んでしまった紫式部が、彼女にネガティブな感情を持って、その後の攻撃対象にロックオンしたという説には妥当性があるような気がします。

また、装束の話でいえば、これまで取り上げるタイミングを逸していましたが、幼少の天皇に代わって政治をする摂政という高い位についた藤原兼家だけが白っぽい装束で、公卿たちの宮中での会議にも登場していましたが、触れそこねている間に、兼家の寿命が尽きそうになってきてしまいました。

あれは天皇から特別なお許しを得て、当時の貴族の最高礼装である束帯(ドラマでは高位の貴族たちが正式な場でまとっている黒い装束)ではなく、多少カジュアルな直衣(のうし)で参内する許可を得られたからこそ可能なコーディネートで、外見から「特権保持者」であるということがひと目でわかるという仕組みなのです。『源氏物語』でも「桜重ねの冠直衣」――桜色の直衣姿に冠をかぶって宮中の花見の宴に光源氏がやってくるシーンが描かれたので有名ですね。

ドラマでは道長(柄本佑さん)の2人目の妻・明子女王(瀧内公美さん)から呪詛されているという設定だからか、兼家が唐突に体調を崩し、老残を晒してしまっていますが、すくなくとも記録に残る兼家は最晩年まで特権を振りかざし、やりたい放題をして、世人の反発をくらいながら62歳で亡くなりました。彼が主邸にしていた東三条第という屋敷の西の対を、まるで宮中で天皇が政務を摂る場所の清涼殿のように改装したりしていたとか……(『大鏡』)。

それから、前回のドラマでは国司の横暴を訴える平民たちがやってくるという場面が描かれていたことに驚いた視聴者もいるでしょう。藤原道隆が「この上訴は却下」と冷たく言い捨てたのに対し、道長が「詳しく審議すべき、民なくば我々の暮らしはない」などと立派なことを言っていましたが、史実の道長はこういう場面ではどのように振る舞ったのでしょうね。ただ、筆者には道長が「信なくば立たず(『論語』)」のような教科書的言動をする人物のようにはあまり見えない気はします。

紫式部や道長が生きた10世紀末から11世紀前半の日本では、国司の不品行を平民が朝廷に告発する事件が、それなりにありました。少なくとも10数件以上の記録が残されていますから。中でも有名なのが、永延2年(988年)の尾張国の国司だった藤原元命(もとなが)の勤務態度や、その関係者の不法行為を31カ条にもわたって書き連ね、朝廷に告訴する事件が起きたことです。史実では、告発が問題視され、すぐさま元命は罷免されています。

もともと、国司とは地方の国々に朝廷から派遣された徴税監督でした。国司は地元民から郡司という部下を選出し、郡司が徴税をちゃんと行っているかを監督する立場だったのですが、10世紀くらいからは、自分で農民と直接契約して、恣意的な税を課し、暴利を貪ることができるようになりました。そして国に収める年貢や作物などの外は自分のフトコロに取り込んでしまうわけです。

教科書的には国司とは下級~中級貴族の仕事などと説明されますが、正確には地方で一旗揚げて蓄財したいと願う、野心家の下級~中級貴族たちが就きたがる仕事で、発言権のある上流貴族にその職を与えてもらえるよう、自腹を切ってでも宮中の儀式や公共事業に貢献するような者がたくさんいました。ドラマのまひろの父・藤原為時も後に越前守に任じられているので、貴人の覚えがめでたくなるよう、史実ではいろいろと頑張ったのでしょう。

為時は紫式部をつれて任国にまじめに下りましたが、中には国司に任命されても自分の代わりに「目代(もくだい)」と呼ばれる代官だけを派遣する者もいました。いわばフトコロに金の卵を産むニワトリを抱えながら、自身は京都で快適にのうのうと暮らすことができたので本当にズルいのです。

しかし、国司の不品行を告訴する権利が郡司や農民にもあったので、やりすぎてしまえば先述の藤原元命のように彼らから訴えられ、信頼と国司の職を失いかねませんでした。ただ、ライバルを出し抜いて国司に任命してもらえるほど、コミュニケーション能力が高い人物――つまり、上級貴族からすれば、器用で使い勝手のよい、かわいい部下たちが国司に任命されていたので、藤原元命もこの件で政界追放されたわけでもなく、朝廷の役人としては引き続き勤務継続していますし、彼の子孫からも国司の仕事を勤める者はたくさん出ていますね。

また、庶民の目から見て、国司=憎悪の対象だったというわけではなく、とにかく儲かる羨ましい仕事というイメージだったようですよ。平安時代後期に成立した『梁塵秘抄』には「黄金の中山に 鶴と亀とは物語 仙人童(わらわ)の密かに立ち聞けば 殿は受領に成り給う」という庶民の間で流行していた歌が収録されています。

以上、つらつらとお話してきましたが、時代が変われば本当にさまざまなことが変化するものですね。また次回お会いしましょう。

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