藤子・F・不二雄のSF短編ドラマ『鉄人をひろったよ』原作はどんな物語? 日常における「巨大ロボット」の捉え方

「藤子・F・不二雄 SF短編ドラマ」第2シーズンが、本日4月7日からNHK BSで始まる。第一弾は『鉄人をひろったよ』(初出:『ビッグコミック』1983年7月25日号)で、主人公は風間杜夫が演じるという。原作はざっくりいえば、「もし平凡な老人が“鉄人”に出会ったら?」というある種の思考実験に基づいた物語だ。

『鉄人をひろったよ』。語感的には、なんだかほのぼのとしたタイトルである。「鉄人」ではなく「カワウソ」「ペリカン」「ムササビ」といったちょっと珍しい動物を代わりに当てはめるのであれば(なお、語呂的に4文字で統一してみた)、天涯孤独な主人公が捨てられていた動物をひろい、そこからかけがえのない日々がはじまる……といったハートフルなストーリーを連想するかもしれない。

しかし、ひろったのはあくまで「鉄人」である。そして「鉄人」とは、子ども向けのおもちゃなどではない。主人公の老人が川辺を車で運転していたところ、血まみれの男に出会い、その男からあるコントローラーを託されたことが物語の発端となる。

慌てふためいていた老人だが、しばらくしてそのコントローラーを追ってか、巨大なロボットが老人のもとにあらわれる。このロボットこそが「鉄人」だ。その場から逃げて家に帰ろうとするも、家までロボットは追ってくる。さて、これをどうすべきか……。老人は妻とともに考え、ある行動をとることにする。

「鉄人」とは何なのか。冒頭における、血まみれの男の切れ切れのセリフから、どうやらある国の国家機密として開発され、さまざまな国がそれを狙っているらしいことが読み取れる。詳細はわからないとはいえ、出会いのきっかけからして不穏さがぷんぷんただよう鉄人を、しかし、老人はそこまで深刻にみなすことはない。せいぜいが「困ったなあ」くらいのテンションで鉄人という存在に接することとなる。そして、本作の特色は、通常であれば「巨大なロボット」という存在が物語にもたらすシリアスさや躍動感をことごとく脱臭させ、あくまでも日常という枠で、鉄人を切り取っている点にある

帰宅後、鉄人をめぐっての妻との会話にしても、そこにはどこか呑気さが目立つ。これじゃ洗濯物も干せない、おとなりさんから騒がれる、粗大ごみの回収日はいつだ……。つまり夫妻は、鉄人の出現を、個人が対処すべき微々たる問題ととらえており、国なり行政機関なりが対処すべき、深刻な問題とはとらえていないのである。

また逆に、鉄人に対して積極的な価値を見出すということもない。話し合いの中では、孫にあげる、番犬代わりに使うといった案も出てくるが、いずれも却下される。もし彼らが鉄人ネイティブ(そんな言葉があるのかはわからないが)だったら、もう少し有効な活用方法も出てきたのかもしれないが、鉄人は恐ろしいものとも、価値のあるものともみなされず、ただじゃまなものとして夫妻に結論づけられる。

あるいは、鉄人と「友だちになる」という可能性も顧みられることはない。主人公が未知の存在と出会い、友情を築いていくというテーマは多くの作品で変奏され、藤子・F・不二雄のSF短編でもまた身近なテーマとなっている(ロボットと友情を築くという作品だけに焦点を当てても、『ぼくのロボット』『マイ・ロボット』がある。そもそも、『ドラえもん』からしてそうなのだから)。しかし、本作では鉄人との意思疎通が可能かどうかさえもよくわからず、老人がそれを試すこともない。

かといって、べつに主人公が不人情なリアリストというわけではない。作中では、鉄人に乗っての飛行に楽しさを見出すような描写や、鉄人の動作にかわいげを見出すような描写もあらわれる。ただ、平穏な生活を維持するうえでは、そんな一時の感傷にどっぷりと身を浸すわけにもいかないのだ。

『鉄人をひろったよ』では、鉄人がもたらす脅威も、鉄人を私利私欲のために利用する人間の愚かしさも、鉄人と友情を築こうとする豊かな感受性もクローズアップされることはない。そこにあるのは、あくまでも日常的な生活に立脚した、「モノ」の延長線上に鉄人をみなす態度である。

そして、それはけっして間違った態度などではない。

『ドラえもん』や『キテレツ大百科』に、または手塚治虫の『鉄腕アトム』でも、横山光輝の『鉄人28号』でも、永井豪の『マジンガーZ』でも、あるいはマンガに限る必要はなく、映画や戦隊ものの番組などでも構わないが、さまざまな魅力あるロボットを文化として享受してきた世代にとっては、ロボットに対して何らかの特別な価値や情緒を覚えることは自然かもしれない。しかし、老人はおそらく、そうしたロボットの恩恵を享受した世代ではなく、そもそもロボットという存在への知識も乏しい。それは老人が鉄人をはじめてみたときの、「そうだ! 孫の雄一郎がこんなの持っていたぞ。ロリコンとかいうんだ。ラジコンだったかな」というセリフからも了解できる。

しからば、ロボットに対して必要以上の感情を抱かないことも、これまた自然なことと言えるだろう。さらにいえば、悪の組織も、地球侵略を狙う宇宙人もいない日常の生活の場において、図体のでかい、存在自体が悪目立ちする「鉄人」などを所持することには何のメリットもない。老人の最後の決断は、けっして愚かなものでも、冷徹なものでもない。むしろ、それが正解だったのだと納得させられてくる。

『鉄人をひろったよ』は、「鉄人」を正義の味方/強大な敵/かけがえのない友だち……といった特別な役割を担う存在としてではなく、あくまでも「モノ」として日常に算入させたらどうなるかという、藤子・F・不二雄の実験精神から生み出された作品と言えるだろう。それは言い換えれば、「特別な存在」としてのロボットをさまざまな形で描いてきた、藤子・F・不二雄の自負を裏返したものであったかもしれない。

そして、本作の「鉄人」というテーマは、2年後にさらに大きな形で昇華されることとなる。それこそが『大長編ドラえもん』の最高傑作『のび太と鉄人兵団』であり、鉄人たちは「ドラえもんの映画史上最強の敵」(藤子・F・不二雄談)という、まさしく「特別な存在」として描かれるのだ。

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