キックボクサーから「和製ブルース・リー」に…風間健さん80歳 長男の筒井道隆さんが俳優を選んだワケ【あの人は今】

風間健さん(C)日刊ゲンダイ

【あの人は今こうしている】

風間健さん
(キックボクサー・俳優/80歳)

70年代にブームを巻き起こしたキックボクシング。不動のエース・沢村忠の対抗馬として颯爽と現れ、KOの山を築いたのが本日登場の風間健さん。引退後は俳優業に乗り出し「和製ブルース・リー」の異名を取るなどアクション俳優として活躍。また、たのきん映画「スニーカーぶる~す」では、悪役として出演。さて、今どうしているのか。

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「今も大勢の門弟がいますが、彼らと汗を流しているときが一番気分がいいですね」

地下鉄有楽町線・江戸川橋駅から程近い、マンションの2階フロアに構える総合武術「武心道」の本部道場を訪ねると、風間健さんが黙々と蹴りや突きを反復練習していた。

「自流派である武心道は空手、少林寺拳法、ボクシング、キックボクシングと、あらゆる実戦競技のエッセンスを組み合わせて50年前に立ち上げたもの。ただ、当時は“総合”という概念が珍しくて理解が追い付かなかった。時代が早すぎたのかもしれない(苦笑)」

名古屋出身。本名・筒井稔。空手と少林寺拳法で研鑽を積み、合計8年間もの修行を経て、名古屋市内に2つの道場を構えるまでになった。そんなとき、ブームだったキックボクシングにスカウトされるのである。

「沢村忠が大人気でしたから『打倒沢村』ってことで、テレビ局の対立構造に組み込まれました。沢村忠はTBS、私は日テレ。契約に縛られて戦う機会には恵まれなかった。そんな頃、俳優として映画に出演したんです」

風間さんを映画の世界に誘ったのは千葉真一。実は若き日の風間さんは、千葉真一の住むマンションに居候していたのである。

「少林寺拳法の頃の知り合いが千葉氏の高校の後輩、その縁で曙橋のマンションで共同生活を送りました。しばらくして、『本物の武道を教えてほしい』って言うもんですから、徹底して突きや蹴りを教えたんです」

千葉真一が設立したジャパンアクションクラブ(JAC)にも風間さんは協力を惜しまなかったが、数年後、関係に亀裂が入る。

「彼の紹介で多くの映画に出演したんだけど、ほとんどノーギャラ。金銭的にルーズで付いていけなくなった。それを機に俳優業とは縁を切ろうと考えていたんです。ところが……」

■長男は俳優の筒井道隆

当時、本物の技術を持つアクションの使い手を映画界は放っておかない。キック引退後の72年、風間さんに香港映画からオファーが舞い込む。それが運命の出会いとなった。

「『ドラゴンを消せ!』っていう映画の撮影中に、プロデューサーを通して『会いたい』って言ってきた男がいたんです。それがブルース・リー。香港ではスターでも日本では無名。それでも日本文化に精通していて、例えば彼の見えの切り方あるでしょう。あれは歌舞伎から取り入れたものです」

この縁が契機となり、日本に空前のブルース・リーブームが巻き起こることになろうとは、まったく想像していなかった。

「付き合いは1年と少し。私も武道家として意見を言いましたよ。それが突然の死でしょう。『日本人が知る前に亡くなるなんて……』と全身の力が抜けました。それもあってワーナーの早川プロデューサーに『燃えよドラゴン』を売り込んだのは実は私なんです。それが一転して大ブーム、私のもとにも、出演や取材のオファーが殺到したものです」

一躍「和製ブルース・リー」として、アクション俳優としての地位を確立、映画やドラマで活躍するも、結局、彼の心根に息づいていたのは武道だった。71年に生まれた長男を自らの後継者として徹底指導するのである。

「少林寺拳法の宗道臣創始から拝名した『道隆』という名前を長男に付けて、毎日厳しく指導です。一日も休みを与えなかった。子供の頃はあいつもつらかったと思う。でも、私の息子になるってことは、そういうことだもの」

その長男こそ、俳優として活躍する筒井道隆である。

「息子は最初、高島屋に就職が決まっていました。でも、自分の子供が百貨店の店員というのが我慢ならなくて『自衛隊か芸能界に』と二者択一を迫ったら芸能界を選んだ。それから三十余年。息子の妥協しない精神は、間違いなく武道で培ったものでしょう。親としては黙って見守るしかありませんな(苦笑)」

現在は国際交流にも取り組み、識者や経済関係者で組織する「ジャパン・アフリカ経済文化交流協会(JAECA)」の会長に就任。「武士道の精神で、世界に羽ばたく人材を育成したい」と80歳を迎えた今も意気軒高である。

(取材・文=細田昌志/ノンフィクション作家)

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