海外でプロサッカー選手として活躍した男性 現在保育園の園長としてはたらく理由とは

2020年4月、福岡県糸島市伊都の杜(いとのもり)に、街のサッカークラブが運営する保育園がオープンした。「エリア伊都グローバル保育園」は、今年で開園から4年目を迎える。

この保育園の園長を務めるのは、有坂哲さん。海外でプロサッカー選手として活躍した経験を持つ人物だ。東京に生まれ育ち、サッカーに夢中になった少年は、コスタリカでプロサッカー選手になった。有坂さんは、なぜ今、糸島市で保育園の園長として働いているのだろうか。

有坂さんの人生の軌跡をたどる。

サッカーに夢中の少年

有坂さんは1975年、東京都練馬区で3人兄弟の長男として生まれた。外で体を動かして遊ぶことが好きで「雨が降ったら外にも出れず、悲劇でしたね」と話す。

有坂さんがサッカーを始めたのは小学3年生の頃。ちょうどその頃、両親が離婚し専業主婦だった母は、兄弟を育てるために外に出て働きだした。母は、兄弟に好きなことをさせてくれた。中学、高校とサッカー部のキャプテンを務めた有坂さんは、東京都の高校選抜にも選ばれた。この頃からキャプテンとして、チームメンバーにどのような声かけをすれば伝わるのか試行錯誤していた。

サッカーの名門大学への進学が決まり時間ができた有坂さんは、近所のジムへ通い始めた。そこで、6年間ブラジルのサッカーチームでプレーしてきた男性に出会った。毎日一緒にトレーニングをしながら、ブラジルでの話を熱心に聞いた。

「これまで海外へ行きたいと思ったことは一度もなかったんです。でも、ブラジルで裸一貫で勝負しているプロの世界の話を聞くうちに、自分もそこで勝負してみたいと憧れを抱くようになりました。『海外』へ行く選択肢が一気に飛び込んできたんです。そこに身を置いたら自分はどうなるんだろう。どんなことを感じるんだろうと興味が湧きました」

どうにかなるから行ってきなさい!

1994年、有坂さんは大学へ入学した。

全国から名だたる選手が集まるサッカー部には、当時の日本代表選手もいた。ハイレベルな環境でサッカーができると期待に胸を膨らませていたが、その期待は打ち砕かれた。他の部員との間にサッカーへの熱量の差を感じ、入学して半年経つ頃には「ブラジルでサッカーをしてみたい」という思いが、フツフツと込み上げてきた。

2年生に上がる頃、大学を辞めてブラジルへ行こうと考えた有坂さんは、母を食事に誘った。さすがに反対されるだろうと思い作戦を練って臨んだ。

「実は、大学を辞めてブラジルに行きたいと思ってるんだ」静かに話を切り出した。

「そうなんだ。あなたが心から思うんだったらそうすれば。若いうちに海外に行くことはいいことだし、絶対に行った方がいいと思う。どうにかなるから行ってきなさい」

母は、あっけらかんと有坂さんの背中を押してくれた。

「無条件に人を信じるってこういうことだなって、母から学びました。もう、この人には叶わないと思いましたね(笑)」

有坂さんは大学を辞め、ブラジルへ渡る準備を始めた。

ブラジルで学んだ「自分の居場所の作り方」

1995年6月、有坂さんはブラジルへ渡った。

覚悟を決めてきたとはいえ、信号もない田舎町にひとり。言葉も通じない環境に気持ちが塞ぎ込んでしまいそうになった。「このままではダメになる」と、練習前に町を散歩することにした。この「なんとかして状況を変えたい」という強い思いからの行動が、突破口を開く。

初日はすれ違う人全員に「ボンジーア(おはよう)」と挨拶をした。突然の挨拶にびっくりされたが、2日、3日と続けると、「ボンジーア」と返してくれるようになった。朝の時間に散歩をする人の顔ぶれはいつも同じだった。4日目には「お前どこから来たの?」と話しかけられた。5日目には、いつも会う人が通りすがりの知人に「俺の友だちのアリサカだ」と紹介してくれた。6日目には「今度うちに遊びに来いよ」と誘ってくれるようになった。

こうして、知らない町を歩き挨拶をすることで、顔馴染みが増えていった。

「ブラジルでサッカーができたことは、もちろん嬉しかったです。でも、それよりも知らない土地で、ゼロから『自分の居場所』を作り、メンタルを保つ術を学べたことの方が自分にとっては大きな経験でした。自分の居場所ができたことで心にも余裕が生まれ、前向きなプレーができるようになりました。ブラジルでの経験があったからこそ、今こうして知らない土地にきて暮らすことができています」

ブラジル時代(写真提供:有坂さん)

コーチとしての葛藤

同年、ブラジル留学から帰国した有坂さんは、Jリーグのテストを受けた。しかし、合格には至らず、関東社会人リーグでプレーしながら次のチャンスを待つことにした。母校の東京都立石神井高校のサッカー部の顧問にも声をかけられ、コーチを引き受けた。思いのほかコーチの仕事に夢中になった有坂さんは、1年半で社会人リーグを辞め、アルバイトをしながらコーチ業に専念することにした。

「自分の声かけで人が前向きになり、夢中になっていく姿を見ることが一番の喜びでした。夢中になれば自ずとサッカーもうまくなります。なので、どうすれば子どもたちが夢中になれるかを考え伝えていくことが好きでした」

中学・高校とスパルタ式の厳しい指導者や放任タイプの指導者のもとでサッカーを経験してきた有坂さん。両極端な環境でのサッカーを経験したからこそ、「やらされるのではなく、子どもたちが自分を解放し、楽しく夢中になれる環境を作ること」を、指導者として意識するようになった。

コーチについて4年が経つ頃、監督や選手から信頼を得ていた有坂さんは、コーチの枠を超えチームの指揮を任されるようになっていた。全国大会予選の準決勝まで勝ち進むと、当時24歳の有坂さんは「若手の名コーチ」として注目されるようになった。「有坂哲に教わりたい」という生徒たちが入部してきて、部員数は130名を超えた。有坂さんが生徒の前に立つと皆が熱心に話を聞いた。

その状況に有坂さんは、怖さを感じていた。

「当時から『こういう人間になりたい』っていうのはなかったんです。でも、なりたくない姿は明確にあって、『口先だけの大人には絶対になりたくない』と思っていました。このままコーチを続けていたら、僕が一番なりたくない大人になってしまうと思ったんです。ブラジルやJリーグへの挑戦もしました。でも、コーチに専念するために所属していたチームも辞めてしまいました。コーチとしては経験を積み、結果も出せるようになってきたのですが、選手として彼らに伝えていることを自分はできているのかと…。自分の内面の浅さを自分が一番感じていたんです」

石神井高校コーチ時代(写真提供:有坂さん)

ブラジルの風

「このままではダメだ、何かを変えなければ」
悶々とした日々を過ごす有坂さんの背中を押したのは、意外なものだった。

2001年9月、夏が終わり夜が涼しくなってきたころ。高校での練習を終えた有坂さんはカフェのテラス席でひとり、本を読んでいた。区切りの良いところまで読んだ本に栞をはさむと、そっとテーブルに置いた。温かいカフェモカをひとくち飲んで思いっきり背伸びをした。そのときだ。ブワッと一瞬風が吹いた。

「あっ。今、ブラジルの風が吹いた」
風を浴びた瞬間、ブラジルでの出来事や当時の心情が一気にフラッシュバックした。

「今の僕は、もう一度あのときのようなヒリヒリとした経験をしないとダメだと思ったんです。チャレンジするなら自分の常識を打ち壊すようなことがしたい。もう一度『海外へ行こう』と決めました。どうせ行くのなら難易度の高いところ、日本人も少ない土地でチャレンジしたいと思いました」

とはいえ、すぐにコーチを辞めたわけではない。慕ってくれる子どもたちの思いや自身の責任を考えると、自らコーチを辞めることは、苦痛でしかなかった。それでも「迷いながらコーチを続けていくことはよくない」と感じ、心を決めた。子どもたちに思いを伝えると、想定通り反発があった。しかし、練習後にグラウンドで黙々と自主トレを行う有坂さんの姿を見ていた子どもたちは、彼のチャレンジを受け入れ、応援してくれるようになった。

2度目の挑戦

2002年1月、26歳の有坂さんは、コスタリカへ渡った。

最初の滞在先だけを決めて、トレーニングを行いながら、飛び入りでサッカーができるチームを探した。チームが見つからないまま4カ月が経つころ、有坂さんは、ようやくきっかけを掴む。縁あって、バリオメヒコから引っ越し、ベレンという田舎町でアパートを借りた。

かつてブラジルを散歩したときのように、ジョギングをしながら町を巡った。教会前の広場で草サッカーをしている男たちに出会うと、仲間に加わり、プレーできるチームを探していることを伝えた。すると、そのなかのひとりが友達を紹介してくれた。

その友達は、マウリシオ・モンテーロ。コスタリカ代表選手としてワールドカップにも出場したことがある元プロサッカー選手だった。彼は現役を引退後、2部リーグ「サン・ラファエル」の監督を務めていた。有坂さんは、マウリシオの紹介で、彼の友人が監督を務める1部リーグ「カルメリータ」の練習に参加することになった。急展開に驚きながらも、人との出会いが人生を変えることを身をもって感じた。

しかし、現実はそう甘くはなかった。
試合への出場機会を手にすることもないまま、有坂さんはカルメリータを去ることになった。マウリシオの誘いで「サン・ラファエル」の練習に参加していたが、しばらくすると日本で貯めてきた生活資金が底を尽きてきた。今月いっぱいで日本に帰ることをマウリシオに伝えると、思いがけない言葉が返ってきた。「うちのチームと契約しないか?」

2002年、有坂さんは「サン・ラファエル」とプロ契約を結び、コスタリカの2部リーグで1シーズン、プロサッカー選手としてプレーした。

コスタリカ時代(写真提供:有坂さん)

忘れられない3分間

プロとして1シーズンプレーした有坂さんには、ある思いが芽生えた。

「選手として自分がどこまでやれるのか区切りをつけたい。来シーズン、1部リーグのテストを受け、合格できなければ帰国する」と決めた。練習途中で挫折を味わった「カルメリータ」のテストマッチに挑んだ。

先発メンバーに有坂さんの名前はなかった。体を動かし名前が呼ばれるのを待つが、残り5分を切っても有坂さんだけ名前が呼ばれない。「俺は評価の対象にも入っていない。28歳という年齢で日本でもコスタリカでも実績がない。

どんなプレーをしても評価されることはないのか…」頭ではわかっていても、プレーするチャンスさえもらえない状況に「ふざけんな」と悔しさが込み上げてきた。残り3分。怪我人が出て有坂さんの名前が呼ばれた。

「このまま終われば自分の負け。絶対に認めさせてやる」

有坂さんのポジションはボランチ。攻撃と守備のつなぎ役として、試合の流れをコントロールする役割だ。通常のテストマッチでは、皆が自分のプレーをアピールしたいのでパスが回ってこない。しかし、その日、ピッチに入った有坂さんにはパスが集まった。ボランチとして自分のやりたいプレーができて、最後にゴールも決めることができた。

「お前すごかったな」「ナイスプレー」鬼気迫る有坂さんのプレーに、試合後、チームメイトや相手チームの選手までもが、握手をしに来てくれた。「あの3分間は、人生で一番殺気立っていました」有坂さんは、当時を振り返る。

1部リーグへの合格は叶わなかったが、スッキリとした気持ちで日本への帰国を決めた。

「それまでの自分は周りの評価を気にしながら生きていました。3兄弟の長男として、サッカー部ではキャプテンとして、学校では生徒会長もやりました。役割を果たすことで周りから評価されることに喜びを感じていたんです。一方で、周りの目を気にして、役割を果たすことでしか自分を満たせないことに劣等感もありました。でも、あのテストが終わった時に、周りから何を言われようとも『自分がやれることをやった』と心から言えることがすごく嬉しかったんです。もう、あれ以上のプレーはできなかったです」

先のことは決めないで行こう

28歳でコスタリカから帰国した有坂さんは、9年間コーチとして働いた。その後、コーチを辞めて、イベント企画や運営を経験したサッカーカフェで、妻・光葉さんと出会い、結婚した。

2016年10月、カフェの閉店に伴い退職した有坂さんは、妻とふたりで旅に出ることにした。帰国後、コーチとして再び働くことを決めていた有坂さんは、働く先を決めて旅に出るべきか迷っていた。

「先のことは決めないで行こうよ。先のことが決まっていたら、そのための旅になっちゃうから」妻の言葉に有坂さんは感動した。

先のことを決めずに訪れたコスタリカで、ふたりは糸島から移住していた日本人家族と出会う。「帰国後のことはノープラン」というふたりに、家族は糸島のよさを熱心に伝えた。帰国後、糸島を訪れたふたりは、糸島に暮らす人たちとの交流会に参加した。移住者の多様な価値観やライフスタイルに触れるなかで「糸島に住んだらどういう人生になるんだろう」と移住について考え始めた。

コスタリカから東京の家に戻った有坂さんは、東京に暮らすイメージがもてなくなっていた。糸島での暮らしを想像するとワクワクする一方で、コーチとして働くことを考えると、基盤がある東京の方が現実的でもあった。

「これからどうしようか?」妻に話を持ちかけると、「糸島に住みたいんだけど」と返ってきた。「実は、俺も思ってたんだよね」こうしてふたりは、糸島への移住を決めた。

「彼女が言うように次の仕事を決めず『余白』をとっておいたから、『糸島への移住』という選択肢が生まれたんですよね。妻に感謝してます」

有坂さんが好きな糸島の景色(写真提供:有坂さん)

予期せぬ出来事だからこそ…

2017年3月、有坂さんと光葉さんは、糸島に移住した。

移住後、有坂さんは、エリア伊都のホームページを見つけてメッセージを送った。見学に行くと、すぐにパートタイマーとして採用された。しばらくすると、中学生向けのジュニアユースチームの監督を任されることになった。

入社した「エリア伊都フットボールクラブ」は、一般社団法人としてサッカースクールを運営していた。サッカースクール事業では、生徒数が増えるに連れて収益も増えるが、同時に雇用も増やさなければならない。生徒や講師の数が増えるほど、マネジメントが難しくなる。会社は安定的に事業を継続していくために、サッカースクール以外に事業の柱を作りたいと考えていた。サッカースクール運営のノウハウを活かしながら地域に貢献できる事業として、当時、国が募集していた企業主導型保育園の認可を取得した。

2020年4月の保育園オープンに向けて、園長として声をかけられたのが有坂さんだった。会社はコーチや海外での経験を有する有坂さんであれば、多くの人と関わる園長の仕事にマッチしていると考えていた。

「当時はまだ子どももいなかったので保育園の知識や経験はまったくありませんでした。園長の話をもらった時は、予期せぬ出来事に驚きました。でも、予期せぬ出来事だからこそ、なにか面白いことに繋がっていくんじゃないかって、これまでの経験から思いました。ゼロから飛び込んだコスタリカでプロになったり、妻とコスタリカへ旅に出たら糸島へ移住したり。予期せぬことに巻き込まれたときの僕の人生は、間違ってないって自信があるんです」

「自分にできることは何だろう」と前向きに考え始めた有坂さんは、数日後、園長就任の依頼を承諾した。

エリア伊都グローバル保育園

「空気感」を作る

2020年4月、エリア伊都グローバル保育園がオープンした。有坂さんは、ジュニアユースの監督と兼務するかたちで、エリア伊都グローバル保育園の園長に就任した。

1年目は、市や保健所などの外部対応や事務業務をこなしながら、開園時間の7時に出社し、保育園の1日の流れを学んだ。有坂さんは、当時をこう振り返る。
「オープンしたばかりの保育園だったので、子どもを預ける親にとっても預かるスタッフにとっても、その場に園長がいるかいないかって大事なことだと思ったんです。自分が顔を見せることで安心感に繋がればいいなと思っていました」

園がオープンして2年目、忘れられない出来事があった。卒園式で、子どもたちが得意なことや好きなことを発表してもらう場を作った。ポケモンの名前を暗記して披露する子もいれば、アイドルを真似て歌う子もいた。「発表後の親子の晴れやかな表情が忘れられなくて。うちの保育園ならではの取り組みを今後も続けていきたいですね」と有坂さん。

3年目になると、ある取り組みを始めた。月1回の職員会議の最後に、一緒に働く職員の良い取り組みを、ひとりずつ発表することにした。せっかく集まるのに、組ごとの報告や園児の情報共有だけで終わるのはもったいないと考えたのだ。最初は照れる職員もいたが、全員が発言することで皆がポジティブな気持ちになり、職員会議の空気感が温かくなった。

園長の仕事で大変なところはありますか?とたずねると、意外な答えが返ってきた。
「園長として働いてみて、僕は管理職に向いていないと思ったんです。なぜかというと、自分が管理されたくないからです(笑)でも、園長という役職をもらったからには、自分ならではのできることをしていきたいと思っています。保育園に置く道具や『園の理念』を考えることも、ゼロからのスタートでした。細かく管理することよりも、子どもも大人ものびのびと過ごせるような「大きな枠組み」を少しずつ、少しずつ作ってきた感じです」

保育園の卒園式(写真提供:有坂さん)

大切にしていること

保育園園長に就任して4年、有坂さんは、園長の仕事についてこう語る。

「園長としての一番大事な役割は『空気感を作ること』だと思っています。保育の現場でもサッカーのフィールドでも、大人がピリピリしていると、子どもはその雰囲気を感じとり萎縮してしまいます。それは絶対に避けたいです。まずは、大人である自分たちがのびのびと楽しむ姿を見せることで、子どもたちが思いっきり自分を解放していくことができます。

『いい空気感』を作るために意識していることは、まず何よりも自分がご機嫌でいることです。これは保育園でもサッカーでも、人生においても大事にしています。どこにいても誰といても、自分がご機嫌でいることで、予期せぬ出会いに恵まれるし、自分が生み出す空気感がいいものになると思っています。

園長として、サッカーの指導者として、自分の影響力を自覚しているからこそ直接言葉で伝えるよりも、いかにいい空気感を作るかの方が大事だと思っています。高校でコーチをしていた時、入部してきた生徒が『試合に出ている選手もベンチもみんながイキイキしていた』と言われたことがあるんです。まさに自分が作りたい『いい空気感』が作れていたんだなって。3年間やってきて、園長としての大事な役割のひとつが見えてきた感じです」

最後に、有坂さん自身の今後についてたずねるとニコッと笑って答えてくれた。

「これからのことはわかりません。わが家の最後の夢は、キャンピングカーで旅をしながら暮らすことなんです(笑)。計画通りにことが運ぶことが喜びの人もいるかもしれませんが、僕はこれからどうなるかわからない『余白』をとっておきたいんです。先が見えないということは、なにかが起こるワクワクがあるということでもありますからね。ただ、これからのことについて、僕がひとつだけ決めていることがあります。コーチを始めたときから、必ず子どもたちに伝えてきたことがあるんです。『あの頃はよかったではなく、今が一番楽しいと言える人生を送ってほしい』僕自身も口先だけの大人にならないように、今が一番楽しい人生を歩んでいます」

有坂さんと妻・光葉さん

サオリス・ユーフラテス

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