「クマムシ」のタンパク質が、人間の老化を遅らせる可能性

2024年3月19日、クマムシが持つタンパク質が、人間の細胞の働きをゆっくりにする(人間の細胞の代謝を遅らせる)可能性があることが明らかになった。(「Protein Science誌」に掲載された論文)

ただし現時点では、実験室での研究で少し可能性が見えてきたという段階だ。
これらのタンパク質が確実に有効であることを示すには、さらなる研究が必要だという。

本稿では、クマムシが照らす老化対策の未来を探ってみる。

写真: 1mmほどの小さなクマムシは極限環境に耐える能力で知られている微小生物だ。 CC BY-SA 2.5

老化の課題

人類は古来より「老化」という避けられない運命と向き合ってきた。

人生100年時代とは言われているが、シワ、白髪、筋力の衰え、病気の罹患率の上昇など、老化は身体機能の低下をもたらす。

細胞の損傷、遺伝子の変異、代謝の低下、免疫機能の低下など、様々な要因が複雑に絡み合って老化を引き起こすと考えられている。

現在、老化対策の研究は様々なアプローチで行われている。

・カロリー制限が寿命を延ばす効果があることが動物実験で示されており、人間の寿命にも効果があるか研究されている。
・適度な運動は健康維持に重要であり、老化に伴う筋力や心肺機能の低下を防ぐ効果が期待されている。
・老化の原因となる分子や細胞の働きを阻害する薬剤の開発が進められている。
・幹細胞などを使って、損傷した組織や臓器を再生する技術の開発が進められている。

これらの研究は徐々に成果を上げつつあるが、老化を完全に防いだり、若返る方法はまだ見つかっていない。

しかし、近年「クマムシ」が老化対策研究に新たな光を投げかけているのだ。

極限を生き抜く驚異の生物「クマムシ」

画像: ドゥジャルダンヤマクマムシ Hypsibius dujardini の電子顕微鏡写真 CC BY-SA 3.0

老化の影に怯える人類とは対照的に、地球上には老化とは無縁の生物が存在する。

それは、体長わずか1mmほどの小さな生き物、「クマムシ」だ。

クマムシは「緩歩動物」と呼ばれる動物群に属し、8本の脚を持ち、ずんぐりとした体型をしている。
その愛らしい姿から「ウォーターベア」というニックネームでも親しまれており、ぬいぐるみなども販売されているくらいだ。

しかし、クマムシの真の凄さはその外観ではなく、驚異的な環境耐性にある。

クマムシは、地球上のあらゆる極限環境を生き抜くことができるのだ。

・クマムシは極度の乾燥状態に耐えることができる。体内の水分をほぼ完全に失っても、仮死状態になって生き延び、水分が戻ると蘇生する。
・クマムシは摂氏150度の高温からマイナス273度の超低温まで耐えることができる。これは、地球上のあらゆる環境で生存可能であることを意味する。
・クマムシは致死量の放射線を浴びても生き延びることができる。
・クマムシは宇宙空間のような真空状態でも生き延びることができる。実際に、2007年9月に欧州宇宙機関によって、宇宙空間に10日間暴露されたクマムシが地球に帰還後、蘇生して繁殖したという実験結果もある。
・2019年4月12日に、月面着陸に失敗したイスラエルの民間探査機「ベレシート」には、数千ものクマムシが載せられていたが、月に残されたクマムシの生存が期待されており、将来的に回収作戦の予定もあるという。

クマムシの驚異的な環境耐性の秘密は、「クリプトビオシス」と呼ばれる「仮死状態」にある。

クマムシは過酷な環境に置かれると、代謝活動をほぼ完全に停止させ、乾燥した状態になる。
この状態では、外部からのダメージを最小限に抑えることができ、環境が改善するとクマムシは再び代謝活動を再開し、元の姿に戻る。

この驚異的な能力は、老化の謎を解き明かすための貴重な手がかりを提供しているのだ。

クマムシの能力を老化対策へ応用する研究

画像: ミルネジウムクマムシ CC BY-SA 2.5

クマムシの驚異的な環境耐性と老化への耐性は、世界中の科学者たちの興味を引いてきた。
特に、クマムシが仮死状態に入る際に働くタンパク質は、老化対策への応用が期待されている。

ワイオミング大学の研究チームは、クマムシのタンパク質に着目した研究を行った。

研究チームは、クマムシが仮死状態に入る際に重要な役割を果たす「CAHS D(カーズD)」というタンパク質に着目し、このタンパク質が人間の細胞にどのような影響を与えるかを調査したのだ。

そして研究の結果、驚くべきことが明らかになった。

このタンパク質を人間の細胞に導入すると、細胞がクマムシと同様にゲル状に変化し、代謝活動が低下することがわかったのだ。

これは、クマムシの仮死状態と似たような状態が、人間の細胞でも再現されたことを意味する。
さらに、ストレスに対する抵抗力が増加することもわかった。

通常、細胞はストレスなどを受けるとダメージを受け、老化を促進する。
しかし「CAHS D」を導入した細胞は、これらのストレスに耐える能力が向上し、細胞の老化を遅らせる効果が期待できると考えられている。

また、この研究は臓器移植細胞治療など、医療分野への応用も期待されている。

臓器や細胞を長期間保存することは、移植医療や再生医療にとって大きな課題だ。
クマムシのタンパク質を利用することで、臓器や細胞を仮死状態に保ち、長期間保存することが可能になるかもしれないのだ。

さらに、この研究は老化のメカニズムを理解する上でも重要な手がかりとなりうる。

クマムシが老化の影響を受けない理由を解明することで、人間の老化についても新たな知見が得られる可能性があるのだ。

クマムシの驚異的な生存能力 「バイオスタシスとクリプトビオシス」

画像: クマムシのイラスト credit by Bing Image Creator

本稿において非常に重要な概念なので、バイオスタシスクリプトビオシスについて個別に説明する。

クマムシの驚異的な生存能力の背後にあるメカニズムは、バイオスタシスとクリプトビオシスという2つの重要な概念によって説明される。

1. バイオスタシス 「生物学的時間の遅延」

バイオスタシスとは、生物学的時間を遅延させることで、生物の老化や死を遅らせる状態を指す。

クマムシは、極限環境に遭遇すると代謝活動をほぼ完全に停止させ、体内の化学反応を極めて遅くすることができる。

これにより細胞の損傷や老化を抑制し、長期間生存することが可能になる。

2. クリプトビオシス 「隠された生命」

クリプトビオシスとは、極限環境下で生命活動を停止し、水分が供給されると再び活動を再開する状態を指す。

クマムシは、乾燥、低温、高圧などの環境ストレスに遭遇すると、クリプトビオシスと呼ばれる無代謝状態に入る。

クリプトビオシス状態は、数ヶ月から数百年も持続することができるといわれている。

未来の老化対策

クマムシのタンパク質を利用した老化対策には、以下のような可能性が考えられる。

・「CAHS D」のようなクマムシ由来のタンパク質をベースにした薬剤が開発されれば、老化の進行を遅らせたり、老化に伴う疾患を予防できる可能性がある。
・クマムシのタンパク質を利用して細胞を仮死状態に保つ技術が開発されれば、細胞治療の安全性や有効性が向上し、より多くの患者に治療を提供できるようになる。
・臓器を長期間保存できるようになれば、移植医療の進歩にも大きく貢献する。待機期間が短縮され、より多くの患者が移植を受けられるようになる。

研究の課題と今後の展望

しかし、クマムシのタンパク質を利用した老化対策には、まだ多くの課題が残っている。

・クマムシのタンパク質を人間に使用した場合の安全性について、十分な検証が必要。
・クマムシのタンパク質による老化抑制効果が、どの程度持続するのかを明らかにする必要がある。
・クマムシのタンパク質をどのように人体に投与するのか、効果的な方法を開発する必要がある。

これらの課題を克服するためには、さらなる研究が必要だ。

さいごに

本稿を執筆するに当たり、クマムシのことを全く知らなかったので、あれこれ調査してみて、非常に驚いたと共に興味が湧いた。

クマムシをさらに研究していけば、人類の夢である「健康で長生きする」という願いを叶えられる可能性があるのではないだろうか?

まだまだ課題は残されているが、この最強の小さな生物が人類の健康寿命延伸に大きく貢献する日が来ることを期待したい。

参考 :
Labile assembly of a tardigrade protein induces biostasis | Protein Science

© 草の実堂