「石川県のために」日本航空石川が見せたセンバツでの奮闘と輪島に届けた笑顔

◆ 石川代表としての特別な思いを背負い選抜へ

第96回選抜高校野球大会に出場した高校球児の懸命な姿は、元日に発生した能登半島地震の被災地にも届いた。

今大会は、青森山田の橋場公祐主将(3年)による「私たちにできることは、目の前の白球をがむしゃらに追い続けること。そして、全力で野球を楽しむことです」との選手宣誓で幕が開いた。

被災した石川県からは星稜と日本航空石川の2校が出場した。昨秋の明治神宮大会を制した星稜は「石川県、負けないぞ」を合言葉にして県勢初となる4強入りを果たした。

そして日本航空石川は、震災の被害を乗り越えて選抜を迎えた。

元日、新3年生の参加するグループラインに「やばいぞ」との投稿があった。

各部員がテレビを確認すると、被災して変わり果てた輪島の姿が映し出されていた。

部員同士で安否を確認するも、電波状況の優れない石川県内の選手とは連絡が取れず、選手全員の生存が確認できるまでに数日を要した。

石川県ではなく避難先の山梨県内で1月19日から全体練習が始まった。

練習再開直前、中村隆監督と3年生で決めた約束があった。

「被災した子に優しく接しすぎるのもダメだと思う。いつも通り接してあげような」

部員67人中、石川出身は11人。選手それぞれの被災状況が異なる中で練習が始まった。

輪島市出身で避難所生活から山梨入りした福森誠也は、部員全員の前で被災当時の状況を語ることにした。

福森は輪島市内で被災し、家が崩れ、祖母を背負って高台に逃げた。忘れたい現実を伝えてまで、選手に石川の現状を知ってもらおうとしたのだ。

また、一足先に山梨入りした中心選手と地元で個別練習を続ける選手の間に温度差が生まれないように10回以上もミーティングを重ねて選手間で話し合った。そこで「感謝の気持ちを忘れない」「一生懸命プレーするしかない」などの思いを共有した。

その話し合いの議題が、ある一日だけ「帽子のつばに何を書くか」に変わった。

部員同士で意見を出し、多数決を取って「笑顔 感謝 恩返し」に決まった。さらに「石川県のために」と付け加えることにした。

宝田(ほうだ)一慧主将(3年)は、2月下旬に輪島市役所を表敬訪問するため、震災後初めて輪島市内に戻った。

すると市内の至る所に「頑張れ!日本航空石川」と書かれた垂れ幕が飾られていた。

宝田は、その光景をスマホで撮影し、野球部のグループラインに写真を投稿した。この写真を見て、選手たちは懸命に野球に励む姿が被災地にまで届いていることを実感した。

こうして石川代表としての特別な思いを背負い、常総学院(茨城)との1回戦に臨んだ。

◆ 「帽子、見よう」。気持ちを一つにして窮地を切り抜けたメッセージ

試合は投手戦になった。

打線が相手先発の小林芯汰に対して攻略の糸口が見いだせない中、先発左腕の猶明光絆が8回途中1失点と力投した。

そして迎えた0-1の8回二死満塁の正念場。伝令役として福森がマウンドに向かった。

満面の笑顔で輪に加わり、ナインに伝えた。

「帽子、見よう」

全選手の帽子のつばには「石川県のために」と書いてある。気持ちを一つにして、この窮地を無失点で切り抜けた。

中村監督は「福森が最前列で一番声を出してくれていた。“大事な場面だから気持ちを入れてこい”と送り出しました」と振り返り、遊撃手の北岡颯之介(3年)は「福森がマウンドに走ってきてくれたときに心が震えました。帽子を見て“よっしゃ、守ってやるぞ”と思いました」と明かした。

試合は0-1と初戦突破とはならなかった。

中村監督は悔し涙を流しながら選手の奮闘を称えた。

「高校野球をやるにあたって、自分の夢や自分の親のためなど近い人のために頑張ってきた選手が、もっと範囲を広げて、支えてくれるいろんな人のために頑張ることを身につけられたと思います」

願っていた白星ではなかったものの、選手の奮闘は間違いなく石川にまで届いた。

文=河合洋介(スポーツニッポン・アマチュア野球担当)

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