【達川光男連載#43】「なあ達川、お前を使うつもりはなかった」古葉竹識監督の真意は…

退任が決まっていた古葉竹識監督(左)は松田耕平オーナーと握手してカープに別れを告げた

【達川光男 人生珍プレー好プレー(43)】1978年から92年に引退するまで、私は現役生活をカープ一筋で過ごしました。ただ、レギュラーとして定着した83年以前には2度ほどトレード要員になったことがあるんです。

入団3年目ぐらいだったと思います。球団から西武の内野手とのトレードを通告されたのは。交換要員で折り合いがつかなかったのか、ご破算になったんですけどね。江夏豊さんと日本ハム・高橋直樹さんの交換トレードが成立した際も、複数トレードに発展した場合の候補になっていたそうです。

水沼四郎さんや道原裕幸さんの後継者と期待されながら、正捕手となったのは入団6年目。それでも若い捕手は他球団にとっても魅力で、なにかと名前が挙がっていたのでしょう。

球団初の「2000万円捕手」として臨んだ85年も、私は危機に直面していました。キッカケは開幕前のオープン戦で一塁ベースを踏んだ際にやってしまった足首の捻挫です。右だったか左だったかも忘れてしまいましたが、これがケチのつき始めでね。

4月13日の本拠地・旧広島市民球場で行われた阪神との開幕戦で大野豊とバッテリーを組んだのは、前年あたりから頭角を現していた6歳下の山中潔。4試合目のヤクルト戦でようやく私も先発出場できたと思ったら、翌日から再び山中が3試合連続でスタメンといった具合でした。

この正捕手争いに同い年で慶応大―プリンスホテルを経て82年のドラフト外で入団してきた堀場英孝(現秀孝)まで加わってきて、私の出番は減るばかり。ようやくレギュラー捕手らしく起用されるようになったのは、6月半ばに差しかかってからでした。

85年はご存じの通り、阪神が21年ぶりのリーグ制覇を果たして初の日本一に輝くわけですが、9月11日の大洋戦に10―2で勝って優勝マジック22を点灯させると、再び私に危機が訪れました。古葉竹識監督が優勝を諦めたわけではないでしょうけど、翌12日から山中が5試合連続でスタメン出場。10月に入ると、ほとんどの試合で私はベンチスタートとなりました。

そんなある日のことです。古葉監督から衝撃的なことを言われたのは。おそらく9月27日に同年限りでの退任を表明された後だったと思います。「なあ達川…来年は、おまえを使うつもりはなかった。次の監督がどうするか分からんが…」と。

結論から先に言うと、私は翌86年に128試合に出場し、打率2割7分4厘、9本塁打、46打点といずれも自己最多を更新してリーグ優勝にも貢献しました。それは後任の阿南準郎監督にレギュラーとして起用していただいたおかげですが、もし古葉監督が続投だったら私の野球人生は変わっていたかもしれません。

去り行く指揮官が残してくれた言葉は本音だったのか、それとも私を奮起させるための最後のメッセージだったのか…。いずれにしても95試合の出場にとどまった85年の屈辱があったからこそ、野球人生が伸びたことは間違いないでしょう。

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