『オッペンハイマー』は“主観”の映画だ ノーランが我々に自覚させる人間の“脆さ”

クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』がようやく日本公開された。製作の報が出た時から筆者は「この映画がノーランにとっての『シンドラーのリスト』になる」と予想していた。これまで主にSFアクション映画を手掛けてきた奇才による初の実録伝記映画。それは娯楽映画の申し子とも言うべき人気監督ながら、なかなか大人の映像作家として認められてこなかったスティーヴン・スピルバーグが『シンドラーのリスト』を手掛け、名実共に現代アメリカ映画界の名匠となった頃に重なったのだ。かくして『オッペンハイマー』はアカデミー賞で13部門にノミネートされ、『シンドラーのリスト』と同じ7部門で受賞。監督賞のプレゼンターはスピルバーグその人だった。

公開前から主にソーシャルメディア上で飛び交っていた喧しい声を忘れ、まずは自らの眼でスクリーンに相対してもらいたい映画である。原作はカイ・バード、マーティン・J・シャーウィンによる伝記『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』(原題は映画冒頭でも言及されるプロメテウスにちなんだ『American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer』)。ノーランは自ら脚色するにあたり、オッペンハイマーの一人称で書いたという。映画はオッペンハイマーの視点で進行するパートをカラーで、彼を糾弾する原子力委員会委員長ルイス・ストローズ(性格俳優へと返り咲いたロバート・ダウニー・Jr.が演じる)の視点をモノクロで描き、時間も場所も異なる2本のシークエンスを巧みに交錯させながら3時間の長尺をものともしないスピードで進んでいく。ノーランの語りの速さは原子運動を夢想するオッペンハイマーの思考速度であり、プロメテウスによって“火”を手に入れた私たち人類の転落の速度でもある。

ノーランの映画には制御することのできない、しかし抗し難い魔性を持った力が度々登場する。出世作『メメント』では記憶障害の男がポラロイドと入れ墨で真実をコントロールしようとする。『インセプション』では他人の夢に潜入する技能を持った主人公が、次第に深層意識に耽溺していく。『ダークナイト』は凶悪犯ジョーカーを捕らえるべく、バットマンが街中を盗聴して行方を追う。2008年の公開当時、闇の騎士には対テロ戦争の大義の下、自国民を監視したアメリカ政府の姿が重なり、正義と悪の境界が消失する物語に戦慄した。後にノーランは『ダークナイト ライジング』や『TENET テネット』に核の脅威を登場させ、『オッペンハイマー』でついに主題となる。

オッペンハイマーは恩師ニールス・ボーア(マイケル・ケインに代わるノーラン映画の新たな支柱ケネス・ブラナー)に「音楽は聞こえるか?」と尋ねられる。著名な科学者たちがろくろく説明もないまま現れ、科学用語も飛び交う本作は、科学に魅せられ、戦争や恣意的な政治に翻弄された男たちの物語でもある。ニールス・ボーアと、映画ではマティアス・シュヴァイクホファーが演じたドイツの理論物理学者ハイゼンベルクの邂逅を描いた戯曲『コペンハーゲン』では、原爆開発競争に引き裂かれた彼らが、不確定性原理という科学の美に人生を見出していた。この戯曲は死者の目線からいくつもの時間軸を横断し、原因と結果、悔恨が全ての時間に存在するという話法において『オッペンハイマー』との類似性も強い。戯曲の終盤、ハイゼンベルクは言う。「一物理学者に、原子力エネルギーの実践的活用を研究する道徳上の権利はあるのでしょうか?」。

ロバート・オッペンハイマーはメジャー大作映画の主人公としてあまりにも共感を覚えにくい人物である。天才ゆえの傲慢さとナルシシズム。名演を見せるキリアン・マーフィーの痩身は知性の人が持つ特有の気難しさを醸し出す一方、そのシルエットは優雅で、事実オッペンハイマーは多くの女性を魅了した。彼は既婚者であるキティ(万能のエミリー・ブラント)と結婚するも、婚約者ジーン・タトロックとの関係を清算できず、これが後に彼の精神に重大な影響を及ぼすことになる。ノーラン映画には主人公にとりつく亡霊のような女性がしばしば現れる。『メメント』の記憶の中にある妻、『インセプション』で夢の世界にのめりこんでしまったマリオン・コティヤール、そして本作のジーン・タトロックだ。『ミッドサマー』や『聖なる証』でも見せたフローレンス・ピューの憂鬱は、キティの視点から夫とタトロックがまぐわう場面で観客を凍りつかせる。

ノーランはフロントラインをオールスターで固めながら、脇には画面いっぱいに性格俳優を敷き詰め、ここにアメリカ映画ならではの充実がある。ジョシュ・ハートネット、デイン・デハーン、ジェファーソン・ホール、それにオッペンハイマーの盟友イジドール・ラビ博士に扮したデヴィッド・クラムホルツは映画の宝である。また『博士の異常な愛情』のストレンジラヴ博士のモデルとされる“水爆の父”テラー博士を怪演したのは、傑作『アンカット・ダイヤモンド』などで知られる兄弟監督“サフディ兄弟”の弟ベニー。近年、ポール・トーマス・アンダーソンの『リコリス・ピザ』から2023年はエマ・ストーン、ネイサン・フィールダーと共演した異色テレビシリーズ『ザ・カース』、子煩悩な父を演じた好編『神さま聞いてる? これが私の生きる道?!』に出演する八面六臂の活躍で、今最注目のユダヤ系クリエイター、俳優である。

1945年7月16日、人類初の核実験“トリニティ実験”が決行される。映画全体を司るルドウィグ・ゴランソンのスコアは頂点に達し、シアターの直上を爆風が吹き抜けるかのようなスペクタクルは大きな見せ場ではあるものの、真骨頂は後の場面にこそあると感じた。実験の成功後、原爆の支配権はオッペンハイマーの手からするすると抜け落ちていく。ヒトラーが自殺し、既に大勢が決した中、日本への原爆投下はなし崩し的に決められ、ヒロシマ、ナガサキへと向けられた。映画では現地の惨状が画面に映ることはない。原爆投下の成功と終戦に湧く聴衆の前に立ったオッペンハイマーは、眼前の人々が熱線に焼かれていくさまを幻視する。歓声が耳をつんざく阿鼻叫喚の断末魔へと変形する光景はノーラン映画技術の到達点とも言える演出だ。しかし理論家であるに加え、人類史上最大の実験を成功させた科学者でありながら、それでもなおオッペンハイマーのヴィジョンはここ日本に暮らす一観客の筆者にとって生ぬるいとすら思えた。

『オッペンハイマー』は“主観”の映画である。ナチスとの原爆開発競争を迫られたユダヤ人科学者たち、戦地に愛する人々を送ったアメリカ国民、原爆開発にのめり込んだオッペンハイマー、この物語を映画にしたクリストファー・ノーラン、原爆の惨禍を世界中の誰よりも知るであろう日本の観客たち。映画が政治的プラカードになるのを拒否するノーランは観客を脱落寸前のスピードまで振り回しながら知的好奇心を喚起し、観る者に問いかけ、あの時何が行われ、そして私たち1人ひとりに厳然たる差異と溝があることを自覚させる。人間は曖昧で不完全であり、多くの過ちを犯す。脆さを抱えた私たちは、オッペンハイマーの作った核のある世界に共に生きているのである。

(文=長内那由多(Nayuta Osanai))

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