Mrs. GREEN APPLE、藤井 風、[Alexandros]……歌詞の一人称で浮き彫りになる多彩な表現とメッセージ

日本語は、多彩な種類の一人称が存在する言語である。たとえば、英語における「I」を意味する一人称の単語が、日本語には「私」「僕」「あたし」「俺」「うち」など多数あって、そのほかにも「我輩」「拙者」といった一人称や、それぞれの地域の方言に則した一人称が各地方に存在している。日本の音楽シーンにおける楽曲は当然ながら日本語で綴られる作品が数多く、それゆえに、日本語という言語の特性を反映した多様な一人称遣いの楽曲が次々と生まれている。男性が歌うから「僕」、女性が歌うから「私」というように、歌い手の性別をもとに一人称が規定されている楽曲も存在する一方で、それぞれのアーティストが多彩な一人称を巧みに使い分けているケースもある。本稿では、いくつかのアーティストの楽曲をピックアップしながら、日本語の一人称表現の妙に迫っていく。

はじめに、Mrs. GREEN APPLEの楽曲をピックアップしていく。彼らの楽曲では、その曲調やメッセージに合わせて多彩な一人称が用いられているが、大きな傾向として、一人称が〈私〉の楽曲が多く生み出されていることがわかる(アーティスト名にも「Mrs.」という女性の敬称が冠されている)。その一例が、〈私を愛せるのは私だけ。/生まれ変わるなら?/「また私だね。」〉という一節が歌われる「ケセラセラ」だ。ほかの楽曲も聴いてみると、「Soranji」は、〈貴方に会いたくて/生まれてきたんだよ/今、伝えたいんだよ/私はただ/私はまだ…〉という歌い出しから始まるが、途中から単一の一人称を超えて〈有り得ない程に/キリがない本当に/無駄がない程に/我らは尊い。〉という結論へと向かっていく。一方、「僕のこと」は、タイトル通り一人称が〈僕〉の歌であるが、〈みんなもそうなら/少しは楽かな/僕だけじゃないと/思えるかな〉という一節を介しながら、やがて〈僕ら〉の歌へと響き方が変わっていく。こうした楽曲からは、性別を限定することなく普遍的なメッセージを届けようとする意志が伝わってくると思う。

また、Mrs. GREEN APPLEの歌詞における一人称にはもうひとつのパターンが存在する。たとえば、「ダンスホール」では1カ所だけ〈僕〉が、「Magic」では複数にわたって〈私〉で歌詞が綴られているが、楽曲全体を俯瞰して聴くと、曲中で描かれる〈僕〉〈私〉という主体そのものよりも、〈君〉の存在にフォーカスしていることがわかる。〈主役は貴方だ〉とリスナーに直接的に歌う「青と夏」(この曲の一人称は「私」だ)も一例として挙げられるように、自分たちだけを鼓舞するのだけでなく、この歌を受け取るリスナー一人ひとりを奮い立たせようとするバンドの思いをあらためて感じる。

藤井 風も、それぞれの楽曲ごとに用いている一人称は異なる。まず言及しておきたいのは、「何なんw」をはじめとしたいくつかの楽曲の特徴として挙げられる、彼の故郷の方言である岡山弁の〈ワシ〉という一人称。「へでもねーよ」「もうええわ」などの楽曲においても岡山弁が随所散りばめられていて、現行のJ-POPシーンで特定の方言をここまで大々的にフィーチャーした曲を複数歌うアーティストは珍しいだろう。なかでも、「さよならべいべ」の〈わしかてずっと一緒におりたかったわ/別れはみんないつか通る道じゃんか〉という一節には、故郷を離れる者が抱くリアルな心情が滲んでいて、標準語では表現するのが難しい微細なニュアンスを見事に表していると言えると思う。

「死ぬのがいいわ」の一節〈わたしの最後はあなたがいい/あなたとこのままおサラバするより/死ぬのがいいわ〉のように、作詞表現に昭和歌謡のテイストを色濃く打ち出している点も彼の独自性のひとつと言える。個人的に特に興味深いのが「grace」。この歌では、〈私〉〈わたし〉〈あたし〉という3種類の一人称で歌われていく。この3つの一人称の使い分けについてはさまざまな解釈ができるが、たとえばサビ頭の〈あたし〉は歌唱する際の音の抜けのよさを考慮したものであるとも考えられるだろう。また、この曲には〈あなた〉という二人称が歌詞に出てくるが、〈あなたはわたし わたしはあなた〉というフレーズが象徴的なように、この歌で描かれているのは他者との関係性ではなく自分との対話だと捉えられる。そうした内省的なテーマは、「花」をはじめとしたほかの楽曲にも通じるものでもあり、彼の楽曲には外部の世界ではなく、今一度自分自身を見つめ直すきっかけを与えてくれるものが多い。一人称によるボーカル表現の違いや歌詞のメッセージ性を意識しながら聴くことで、彼が大切にしているセルフラブ/セルフケアの精神がより色濃く浮かび上がってくる楽曲は他にも多い。

最後に、[Alexandros]の楽曲についても言及しておきたい。川上洋平(Vo/Gt)が書く各曲の歌詞は、〈私〉〈僕〉〈俺〉〈自分〉〈己〉というようにさまざまな一人称で綴られ、夏目漱石の『吾輩は猫である』をモチーフにした「Cat 2」のように猫目線で〈我輩〉という一人称が使われているレアなケースもある。なかでも、川上の抒情的な筆致が特に色濃く滲んでいるのが、一人称に〈私〉を用いた楽曲たちだろう。たとえば、初期の一曲「For Freedom」では、矢継ぎ早に繰り出される英詞のなかに〈誰かの優しい言葉でなく 激しいだけの嘘の言葉でなく/「私は 私だ」って言える事が 何にも変えがたく心地良いんだ〉という、ロック名詞選を編纂するとしたらきっと上位にランクインするであろう渾身のパンチラインが〈私〉という一人称で飛び出す。ほかにも、「Starrrrrrr」の〈どこまでも私は私だから 貫いて誰に何を言われようとも〉をはじめ、〈私〉を主語とした力強いパンチラインを持った楽曲が非常に多い。「Girl A」のように、曲中の登場人物である〈彼女〉の台詞〈“私がいなくたって/あの空が堕ちたって/あなたは生き続けるだろう/無邪気なあの朝に/いたいけな夜に/二度とは戻りはしないだろう”〉が挿入される歌もあり、一聴すると、まるで小説のようなストーリー性が深い余韻をもたらしてくれる。

[Alexandros]には、私小説のようなリアリティ、ロマンチックさを内包する楽曲も多い。「Leaving Grapefruits」の〈思い出してみればあなたはそんな私を連れ去った/痛い程強くつむっていた 瞼/恐る 恐る 開けたの/知ってた?〉という一節は、まさに川上節が見事に冴え渡った極上の名歌詞だと思う。美しいメロディラインとも相まって、切実な感傷が手に取るように伝わってくる。同曲や「あまりにも素敵な夜だから」をはじめ、ロマンチックな心情や切実な恋愛感情を熱さとクールさを兼ねたロックサウンドに乗せて高らかに鳴らされる楽曲は多く、川上の豊かな文学性には驚かされる。

なお、[Alexandros]がサウンドを、詩人/小説家の最果タヒが作詞を手掛けた「ハナウタ」という楽曲があるのだが、この歌では〈ぼく〉という一人称が用いられている。川上の筆致とは異なる最果タヒによる書き方でもあり、愛や孤独の輪郭を浮き彫りにしていく一曲だ。

(文=松本侃士)

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