『機動武闘伝Gガンダム』はかくも型破りな作品だったーー30周年記念プロジェクトへの期待

放送から30年を迎えた『機動武闘伝Gガンダム』。この作品の新プロジェクトの始動、30周年記念ロゴ、そして新たなキャラクターの設定画が発表された。

1994年から1995年にかけて放送された『Gガンダム』は、数あるガンダムシリーズの中でも飛び抜けた異色作として名高い。というのも、『Gガンダム』以前のガンダムシリーズは、基本的に「宇宙世紀を舞台にした、地球連邦とジオンおよびその他諸勢力の、地球圏での戦争」を描いていた。これは半ばルール化し、ガンダムというシリーズを縛り付けていた。

『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』でアムロ・レイやホワイトベースが関わらない地に足のついた戦争ドラマが描かれたり、『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』で『トップガン』をベースに禁じ手とも言える「ガンダムVSガンダム」を描いたりしていたものの、『Gガンダム』以前のガンダムシリーズは基本的に上記のルールから大きく逸脱していない(余談だが、このルールから激しく逸脱することができた同時代のコンテンツとして『SDガンダム』があり、こちらも大きな人気を博していた。この人気には、シリーズのルールを無視できる自由度の高さも寄与していたと思う)。『Gガンダム』の前年に放送されていた『機動戦士Vガンダム』も、シリーズ内では異色の作品ながら、宇宙世紀を舞台にしている点は過去作と共通している。

そんな状況で放送された『Gガンダム』は、頭のてっぺんからつま先まで型破りな作品だった。舞台は宇宙世紀ではなく「未来世紀」の地球圏。地球の荒廃は進み、宇宙空間には「ネオ〇〇」とネーミングされた各国のスペースコロニーが浮かんでいる。そんな世界で、各国はガンダムと名付けられた大型ロボット(モビルファイターと総称される)のバトルで競い合い、最終勝者がコロニー国家群の主導権を得ることができる「ガンダムファイト」を4年に一度開催していた。

そのガンダムファイトの第13回大会。ネオジャパンを代表するガンダムファイター、ドモン・カッシュは、パートナーのレイン・ミカムラと共に地球へ降り立ち、ガンダムファイトへ参加していた。ドモンは実の兄であるキョウジを探しつつシャッフル同盟の仲間たちと出会い、そして強敵たちを撃破していく。しかし師である東方不敗が宿敵となって現れたことで、第13回大会、そしてドモンたちの運命はさらなる激闘へと向かうことになる。

改めて文章にしてみても、ムチャクチャなあらすじである。当時大ブームとなっていた格闘ゲームに加え、プロレス、カンフー映画、武侠小説といった諸要素のエッセンスがドバドバと注ぎ込まれており、ガンダムシリーズのルールから逸脱しているどころか、作品の枠組み自体を破壊している。以前の作品からの共通点と言えば、ガンダム顔のロボットがたくさん出てくることくらいだ。

実際、この作品はガチガチのガンダムファンからすれば、相当に議論を呼んだという。当時小学生だった筆者は年度ごとにガラッと趣向が変わる勇者シリーズを見慣れていたので、「へ~、今度のガンダムはこんな感じなのか~」と思ってプラモを買ったりしていたのだが、前述のように当時のガンダムは「こうでなくてはならない」というルールがはっきりしているタイトルである。1994年にツイッターがあったら、それはもう大荒れに次ぐ大荒れ、意見が割れるどころの騒ぎではなかったはずだ。

しかし、東方不敗登場後から鰻登りに上昇する作品のテンションに呑まれたのか、最終的にはファンの論調も「こういうのもアリか」というラインに落ち着き、現在では歴史的名作の地位を確かなものとしている。実際『Gガンダム』は、行き詰まりかけていたガンダムのビジネスに風穴を開け、多様な展開を可能にした記念碑的作品である。

『Gガンダム』の放送前は、良くも悪くも「ガンダムの正伝は富野由悠季のものである」というムードが強かったという。『0080』『0083』は富野監督作品ではないが、あくまで宇宙世紀のサイドストーリーを描いた外伝的OVAであり、ガンダム世界の本筋的作品でもなければ、地上波で放送されるわけでもない。マニア向けの外伝だからこそ富野監督以外が監督として登板しても許されたわけで、テレビ放送される作品において宇宙世紀の新たな歴史を紡ぐのならば、富野由悠季その人によって物語が語られなければならなかった。

しかし、『Gガンダム』を監督したのは、今川泰宏監督である。派手で仰々しく劇的で熱い今川監督の演出は、「SFか否か」が議論されるようなこれまでのガンダムシリーズとは本来相入れないもののはずだった。だが、武侠要素やガンダムファイトという設定と味付けの濃い今川演出とが化学反応を起こし、『Gガンダム』は一定の成功を収めた。その結果「ガンダムって富野さんが作らなくてもいいんだ」という認識が、作り手にも受け手にも広まった。「ガンダム」というタイトルが監督個人の作家性と切り離され、商業作品としてより広い自由度を得たのである。

さらに、「主役のガンダムが複数体出てくる」というのも、『Gガンダム』で根付いたパターンのように思う。「ガンダムVSガンダム」については『0083』という先行作品があったし、そもそも『ZZガンダム』では「ガンダムチーム」という概念もあった。しかし『0083』で「ガンダムVSガンダム」という構図が成立したのは、あくまで連邦の開発したガンダムをガトーらが強奪したからであり、『ZZ』でのガンダムチームは新型機の登場によって型落ちになったものをジュドー以外のキャラクターに回していったから成立していた。

それに対して、『Gガンダム』ではストーリー序盤から主役とその仲間が5人登場し、それぞれが特徴の異なるガンダムに乗っているという形だった。基本的に「ガンダムは量産のできないワンオフの超高性能機であり、主人公だけが乗るメカである」というルールがあったこれまでの作品とは、この点が大きく異なる。この「最初から個性の異なるガンダムが複数体登場し、キャラのたった登場人物がそれぞれのガンダムに乗る」というルールは翌年の『新機動戦記ガンダムW』でさらに効果的に応用され、現在に至るまでガンダムシリーズに大きな影響を与えた。

さらに言えば、『Gガンダム』の成功によって「宇宙世紀を舞台にしたガンダム作品」「宇宙世紀以外の設定を背景にしたガンダム作品」という二枚看板でビジネスを展開できるようになったという点も、大きな変化だろう。1979年に放送された初代ガンダムからのファンは、1994年の時点ではもう大人になっている。彼らに向けた密度の高い宇宙世紀系の商材を安定して販売しつつ、非宇宙世紀系の作品によって新規ファンや若年ファンを開拓するという商品展開が、『Gガンダム』によって可能になったのである。

その象徴的商品が、1995年に開始されたガンプラの新シリーズであるマスターグレード(MG)だろう。細部まで作り込むことができるものの、手に余るほどの大きさでもない1/100スケールで、機体の内部構造まで含めてパーツ化されたキットであり、明確に大人になったガンダムファンをターゲットにしたシリーズである。本来ならば「子供向けアニメを題材にした商材」だったはずのガンプラが、大人を狙ったアイテムも堂々と商品化できるようになった。「若年ファン向けには、宇宙世紀もの以外の新規タイトルやSDガンダムがある」という状況が整ったからこそ可能になった商品展開であり、そこに至る道を切り拓いたのも『Gガンダム』だったはずだ。

このように、『Gガンダム』は風通しの悪くなっていたガンダムという商売に大穴を開けた作品であり、極めて破天荒な先例となることで、『ガンダム』と名のつくタイトルに広い自由度を与えてきた。『Gガンダム』がなければ『SEED』も『OO』も『水星の魔女』も存在しなかった可能性があるし、ヘタしたら『ガンダム』というシリーズが立ち消えになっていた可能性も充分にあった。まさに「中興の祖」と言える作品だ。

その30周年を記念して発表される新作だが、新たに発表されたキャラクターデザインを見る限り、どうにも頭の形がマスターガンダムっぽい。さらに言えば、『Gガンダム』のネタ元のひとつである『秘曲 笑傲江湖』に登場した美貌の怪人・東方不敗に雰囲気が近いことから、東方不敗の若い頃を描いた作品になるのでは……と噂されている。東方不敗の若い頃を描いたとされる作品には、コミックボンボンの増刊号で連載されていた『機動武闘外伝ガンダムファイト7th』があるが、この作品との関連もあるのかないのか、気になるところ。ひとまず『Gガンダム』を見返しつつ、続報を待ちたい。

© 株式会社blueprint